紙本金地著色南蛮人渡来図〈/六曲屏風〉
紙本金地著色世界及日本地図〈/六曲屏風〉
しほんきんじちゃくしょくなんばんじんとらいず〈/ろっきょくびょうぶ〉
しほんきんじちゃくしょくせかいおよびにほんちず〈/ろっきょくびょうぶ〉
概要
南蛮人渡来図は,左隻(させき)に南蛮船と荷揚げの風景,右隻(うせき)に南蛮人の行列を描いたもので,日本国内の情景のみを一双の六曲屏風に表す。
両隻とも金箔を霞(かすみ)形に貼り,左隻は左三扇(せん)にわたり南蛮人多数を乗せた南蛮船を大きく描き,右方海岸には小舟から舶載の品物を陸揚げする光景及び松樹の下にこれを迎える南蛮人を描く。右隻には,左方上部に入り江に停泊する和船数艘を,下方より中央の橋へかけて南蛮人一行の行列,対岸には下方より松林,家屋を経て商店,上部には回廊のある南蛮寺,同門前道路にはこれを迎える宣教師,見物の庶民等多数を描く。
本作品は,緊密精緻な描写で,狩野派絵師の手になると考えられていおり,現存する南蛮図屏風中では古様な図様を示す。
世界及日本地図は,一隻に南蛮系世界図,一隻に日本図を描く一双の六曲屏風である。
世界図は,大西洋を図の中央に置き,中央経線と赤道の長さの比率を1対2とするいわゆる卵形図法で描かれる。円外は金箔を貼り,中央の赤道は緑,赤の縞(しま)の線,海は群青,陸は国別に白,赤,緑等に塗りわけ,山脈を緑青(ろくしよう)で描き,市街を白壁の家で描き表す。また,国名・地名等を記す。海上にはポルトガル付近を起点とする世界一周航路を朱線で表し,その一端は日本の長崎ヘ到達する。インド洋には一艘,太平洋には二艘の帆船を描く。
日本図は四周に金箔で霞形をおき,中央に大きく日本列島(蝦夷最南端部と本州,四国,九州等)を,向かって左端には高麗の南端を配す。海は群青一色に塗り,陸地は金泥彩(きんでいさい)とし,各国を平滑な緑の境界線で画し,各地に地名及び郡数を墨書する。山脈は緑青で表し,山城を起点とする諸国への主要道路は赤線で引く。
中世日本に流布した行基図(ぎょうきず)の系譜を引くが,海岸線の形状は屈曲に富んだものとなり,特に九州の地形は,他地域と比較して実際の形状に近い。島しょ部へは航路が朱線で表されるが,豊臣秀吉の朝鮮出兵時に基地となった「名越」(肥前(ひぜん)名護屋(なごや))付近から壱岐・対馬を経由して朝鮮半島へ延びる航路は,朝鮮出兵の航路と一致する。また異国への窓口として重要港湾であった博多・名護屋・長崎の三都市は地名表記のほか色丸で明示されており,同都市が重要視されていた時代性を示す。
当該世界及日本地図は,秀吉が朝鮮出兵を行った天正20年(1592)を大きく隔てない時期に,来日した宣教師等がもたらした欧州の地理情報をもとに日本で制作されたものと思われる。こののち江戸時代を通じて多数の地図屏風が作成されるが,本作はその最初期の作例である。
なお,当該世界及日本地図と同様の図様のものに,福井県・浄得寺(じょうとくじ)所蔵本と福井県立若狭歴史博物館所蔵本がある(ともに重要文化財)。
また本作南蛮人渡来図と世界及日本地図は共に,もと備前池田家に伝来したものであり,慶長5年(1600)池田輝政(いけだてるまさ)が織田秀信(おだひでのぶ)を岐阜城に攻めた際の戦利品と伝えられている。
南蛮人渡来図や地図屏風は,南蛮船の来港を機に高まった異国への興味や憧れを背景に,16世紀末から17世紀にかけて多く描かれたが,本作2双はその初期に作成されたものと考えられ,絵画史上,東西文化交渉史上に重要な資料である。