大徳寺境内
だいとくじけいだい
概要
京都市紫野(むらさきの)船岡山の北辺に広大な境内地を有する臨済宗大徳寺は、元応元年(1319)、東山に遁世していた宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が、播磨の武将赤松則村の援助でこの地に大徳庵を作ったのに始まり、正中元年(1324)、妙超に厚く帰依した花園・後醍醐両天皇が船岡の雲林院(うじゐ)の跡地を寄進したことによって寺基を拡張し、龍宝山大徳寺として開山した。
妙超は入宋して日本臨済禅特に公家禅宗に多くの人材を残した南浦紹明(なんぼしょうみょう)の門下であるが、若くして天下の諸禅師を歴参し、京都に帰って天台・真言の旧仏教と論争して禅旨を明確にするに及び、その純粋に宋朝風の禅が朝廷の尊信をえたものであって、妙超は興禅大燈国師の号を賜わり、大徳寺は勅願所とされたのである。
鎌倉幕府滅亡の元弘三年(1333)、大徳寺は五山の一に加えられ、翌建武元年(1334)には五山第一の南禅寺とならんで五山の上位に列した。これは建武新政権によって京都中心の五山制度が定められた結果である。その間、大徳寺は妙超の門派のみが相承することを特許されていた。その二高弟のうち、徹翁義亨(てっとうぎこう)は大徳寺を継いでその基礎を固め、関山恵玄(かんざんえげん)は妙心寺を開いた。しかし、足利政権が確立すると、大徳寺は幕府と合わず、暦応四年(1341)には五山の列より除かれ、ついで足利義満が室町幕府中心の五山の制度を改革して五山十刹の席次をきめたときには十刹第九位に落とされた。しかも幕府は官寺として他派のものも住する十方住持(じっぽうじゅうじ)制を強制したので、永享三年(1431)、幕府に申請して十刹の位を辞し、以後は私寺として官刹の列から退くにいたった。その後大徳寺は五山とは別にふたたび紫衣勅許(しえちょっきょ)の出世道場となり、応仁の乱前後の兵火によって伽藍は殆ど焼亡に帰したが、文明六年(1474)一休宗純が入寺して第八十四世となり、中世的な公家禅の弊風を革新して復興にあたった。そのため、宗派としては大きく発展することはなかったが、依然皇室・公家の貴族階級や、また戦国大名・新興堺商人等の帰依をえ、とくに新興商人の奢侈趣味と明朝(みんちょう)趣味とが結びついた茶道の流行はめざましく、大徳寺はいわば風流の中心として禅界に独自の在野的位置を特色づけるにいたった。伽藍も安土・桃山時代に武将・富豪の檀信多く造営に力を尽くし、寺観は江戸時代初期の寛文年中(1661~1672)に最もよく整ったといわれる。
境内は、東端南北一列に中心伽藍があり、西方に塔頭寮舎が栄えたものであったが、明治維新に手禄を失って漸く衰え、今日では旧境内地を東西に分断する今宮道路やその西側にかなりの敷地を有する学校・運動場等があり、その上数ヶ所にわたって人家密集地がある。しかし大半はなお寺有地であって、仏殿・法堂(はっとう)・方丈・経蔵等はよく修理をへ、三門(金毛閣)・庫裏・北門・四脚門等は部分的なるも古様を遺存し、二十四宇の塔頭は第一級の庭園・茶室・書画等の名品を数多く蔵し、全体として往時禅林の歴史的発展の偉容を伝えている。今回、南北朝から近世にかけ、政界の推移とともに、官寺的性格から在野的性格に変質をとげつつ特異な発展を示した大徳寺の歴史的意義に鑑み、人家密集地を除いて旧境内地の寺域を伺いうる主として現寺有地を指定するものである。
指定予定地は、現寺有地・土塁跡等より旧境内地の輪郭をつかむことができる地域とする。この地域は、船岡山とともに京都市の風致地区である。また、大仙院書院庭園と大徳寺方丈庭園が史跡及び特別名勝に、真珠庵庭園と孤篷庵庭園が史跡及び名勝に、大仙院庭園と聚光院庭園が名勝にそれぞれ指定されている。昭和46年答申を受けた範囲の周囲の一部は除くことになるが、全ての塔頭および枢要な地区の同意を取得しており、史跡の告示を行おうとするものである。