大徳寺境内 だいとくじけいだい

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社寺跡又は旧境内 / 南北朝  室町  安土・桃山  江戸 / 近畿 

京都府
南北朝期~近世
京都府京都市
指定年月日:20160908
管理団体名:
史跡名勝天然記念物

京都市紫野(むらさきの)船岡山の北辺に広大な境内地を有する臨済宗大徳寺は、元応元年(1319)、東山に遁世していた宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が、播磨の武将赤松則村の援助でこの地に大徳庵を作ったのに始まり、正中元年(1324)、妙超に厚く帰依した花園・後醍醐両天皇が船岡の雲林院(うじゐ)の跡地を寄進したことによって寺基を拡張し、龍宝山大徳寺として開山した。
妙超は入宋して日本臨済禅特に公家禅宗に多くの人材を残した南浦紹明(なんぼしょうみょう)の門下であるが、若くして天下の諸禅師を歴参し、京都に帰って天台・真言の旧仏教と論争して禅旨を明確にするに及び、その純粋に宋朝風の禅が朝廷の尊信をえたものであって、妙超は興禅大燈国師の号を賜わり、大徳寺は勅願所とされたのである。
鎌倉幕府滅亡の元弘三年(1333)、大徳寺は五山の一に加えられ、翌建武元年(1334)には五山第一の南禅寺とならんで五山の上位に列した。これは建武新政権によって京都中心の五山制度が定められた結果である。その間、大徳寺は妙超の門派のみが相承することを特許されていた。その二高弟のうち、徹翁義亨(てっとうぎこう)は大徳寺を継いでその基礎を固め、関山恵玄(かんざんえげん)は妙心寺を開いた。しかし、足利政権が確立すると、大徳寺は幕府と合わず、暦応四年(1341)には五山の列より除かれ、ついで足利義満が室町幕府中心の五山の制度を改革して五山十刹の席次をきめたときには十刹第九位に落とされた。しかも幕府は官寺として他派のものも住する十方住持(じっぽうじゅうじ)制を強制したので、永享三年(1431)、幕府に…

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