開拓使文書
かいたくしぶんしょ
作品概要
開拓使は、明治2年(1869)7月8日に設置された明治政府の機関で、蝦夷地および北蝦夷地(翌月おのおの北海道、樺太と改称)の行政を担当し、同8年千島・樺太交換条約による管轄地域の変遷を経て、同15年まで存続した。
その職務は、明治8年制定の「開拓使職務並事務章程」に記されるように、北海道開拓を旨とした。明治3年樺太開拓使開拓次官に任命された黒田清隆は、翌4年に渡米して同国農務局長であったホーレス・ケプロンを開拓使顧問に招聘し、政策助言と各種技術教授を行う御雇外国人来日の端緒を開くとともに、明治5年から10か年におよぶ総額1000万円の大規模予算の獲得に成功した。これにより、明治5年から欧米技術の導入による殖産興業と社会資本整備、移民の奨励と労働力確保、教育と実践を通じた人材育成等に重点を置いた、開拓使十年計画と呼ばれる長期的な施策が開始された。
本件は、開拓使およびその前身の箱館裁判所、箱館府等行政機関において作成、収受、編綴、保管された近代行政文書である。北海道地方行政の後継機関である北海道庁に継承された一群で、現存する開拓使文書群のなかで質量ともに最もまとまった文書群になる。
これら文書のなかでは、「裁録」と「開拓使公文録」が注目される。「裁録」は、太政官との往復文書の総称で、「制旨録」(太政官からの令達文書)、「稟裁録」(開拓使からの仰裁文書)、「申奏録」(太政官への上申文書)に分類され、巻頭に目次を付し袋綴装四つ目綴に編綴される。重要政策の内容、政策決定権の所在、政策決定手続の過程を知りうる文書群である。「開拓使公文録」は本庁・支庁・出張所各部局におい…