谷津貝塚出土墨書土器
やつかいづかしゅつどぼくしょどき
概要
谷津貝塚出土墨書土器
やつかいづかしゅつどぼくしょどき
千葉県
奈良・平安時代
谷津貝塚は習志野市の北西部に位置し、菊田川低地と海老川低地とに挟まれた台地上に立地する。旧石器時代・古墳時代・奈良時代・平安時代・中世・近世にわたる複合遺跡であるが、中心は奈良時代・平安時代の大規模集落である。この集落は7世紀末に開発され、9世紀前半に最盛期を迎え、10世紀前半まで継続した。下総国府と上総国府を結ぶ古代東海道沿いの拠点的集落の一つであり、現在までに竪穴住居跡450軒以上、掘立柱建物跡240棟以上が発見されている。この中には9世紀前半の大型掘立柱建物跡群、墨書土器・打ち欠き土器を含む大量の供膳具土器類が投棄された鍛冶工房が含まれる。
本遺跡では1000点を超える大量の墨書土器が出土しているが、本件の6点はその中でも特に重要な資料である。
1は、「中村寺」及び判読不能の墨書が記されている。「中村寺」が谷津貝塚周辺に所在したかは定かでないが、瓦塔などとともに、本市域への仏教信仰の浸透を示す資料として重要である。
2は、内外面が赤彩された盤状坏の底部外面に「神主」(神は禾扁)と記されている。時期は8世紀中葉から後半と考えられ、「神主」の文字資料としては古いものに数えられる。
3は、7世紀末から8世紀前半の土師器坏の底部外面に「阿□」と記されている。2文字目は欠けていて判読できない。谷津貝塚及び習志野市内では今のところ最も古い墨書土器であり、すなわち市内最古の文字資料である。
4は、「國厨」と記されている。「國厨」は、国府の厨房、または国府の厨房が提供した食料による饗宴を意味すると解釈することができる。下総国府(現市川市国府台)と谷津貝塚の集落との関連性を示唆する資料として重要である。
5は、坏の底部外面に複数の「豊嶋」「出」ほかの墨書が記されている。この「豊嶋」は地名か人名か不明であるが、古代葛飾郡の郷名「豊嶋郷」と関連する可能性がある。
6は、坏の破片で、人面が描かれている。こうした人面墨書土器は、けがれを祓い浄めるためのまじないや、延命祈願のための祭祀に用いられたとする説がある。市内では唯一の人面墨書であり、さらに市内最古の絵画資料ということができる。
1 口径12.8cm 高さ4.1cm 底径6.8cm
2 口径(14.2cm) 高さ3.8cm 底径9.2cm
3 口径(15.4cm) 高さ(3.3cm)
4 口径13.8cm 高さ4.2cm 底径8.0cm
5 口径12.6cm 高さ2.5cm 底径6.7cm
6 縦<3.0cm> 高さ<2.5cm> 横<3.0cm>
( )は推定値、< >は残存値を示す
6点
習志野市鷺沼二丁目1番10号
習志野市指定
指定年月日:20151109
習志野市
有形文化財(美術工芸品)