慶応四年戊辰春四月横浜在勤之記事
けいおうよねんぼしんはるしがつよこはまざいきんのきじ
概要
11代佐賀藩主鍋島直大(なおひろ)が慶応4年(1868)の横浜在勤や上野戦争の状況について自筆で記した回顧記。
新政府軍は同年4月11日に無血開城された江戸城に入ったが、その後も旧幕臣からなる彰義隊は上野寛永寺に屯集して対立していた。そこで5月15日、大村益次郎の指揮により新政府軍は攻撃を加え、彰義隊は壊滅した。このとき直大率いる佐賀藩はアームストロング砲などにより砲撃するなどして参戦している。
本資料によれば、このとき旧幕臣の妻や娘が負傷者の看護を志願したため直大はこれを認可。新政府軍の負傷者の中には「敵方」の妻娘による看護を拒否する者もいたという。直大は「これが現在の厚(篤)志看護婦人会の始まりなり」と評している(直大夫人の栄子は日赤篤志看護婦人会の初代会長)。
明治10年(1877)の西南戦争を機に博愛社(のち日本赤十字社)が創設されるよりも約10年前に、直大の認可により敵味方の区別なき救護が自然発生的に生じていた様子がうかがえる。