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馬場家文書

ばばけもんじょ

概要

馬場家文書

ばばけもんじょ

文書・書籍 / 室町 / 中部

①不詳
②魚住景栄
③魚住景栄
④魚住景固

室町時代/①1467
②1532
③1534
④年未詳

①立町郷内田畠等宛行状
応仁元年(1467)御百姓豊縄が立町郷内の田畠、居屋敷、野を宛行われた文書である。立町郷は中世の郷名で、越前国丹生北郡に属した。近代の立待村に名を伝え、鯖江市北端部に位置する。本状の発給主体の氏名等は明らかでないが、袖(文書の向かって右端部分)に花押をすえている人物が出したものであり、同一の花押が「山本重信家文書」応仁3年(1469)三月十四日付居倉浦刀祢職安堵状に見られる。この居倉浦も丹生北郡に属し、丹生北郡地頭の系譜を引く者が出したと見られる(『吉川地区史』)。袴摺も詳らかでないが、江戸時代大坂町年寄の手当の呼称としてこの語が使われていることから類推して、在地の年寄に対する手当に関連するものとみられる。その内容は田畠、居屋敷、野にわたるもので当時の越前国の有力百姓の土地所有のありさまを具体的に示している。
②魚住景栄書状
天文元年(1532)朝倉氏の重臣で立町郷の給人の魚住景栄が川崩れ地検知の証人を務めた豊綱らに作職分を与えた文書である。魚住氏は戦国大名越前朝倉氏の年寄衆の家柄で、景栄は四代朝倉孝景の享禄元年(1528)から天文11年(1542)にわたって朝倉氏奉行人を務めたことが確認される。魚住景栄は立町郷の領主支配のため川崩れなどの名目による百姓たちの隠し田畠を検査したが、その際豊綱らは在地の証人としてそれらの事実を明らかにしたので、景栄から功績が認められて作職分を与えられたものである。
③魚住景栄書状
同3年(1534)魚住景栄が豊綱の忠節により川崩れ畠地の訴訟を認めて扶持を命じた文書である。引懸は先例、傍例の意。豊綱の川崩れの訴えを認めるが、他の先例にしてはならないと指示している。発給者の魚住景栄は立町郷の領主であり、当地の百姓豊綱の忠節に応じて扶持するという、朝倉氏給人と在地有力者との関係をうかがうことができる。
④魚住景固書状
朝倉氏の奉行人魚住景固が訴訟のため豊綱に出谷(一乗谷に参上すること)を命じた文書である。魚住景固は景栄の子で五代朝倉義景の末期の元亀元年(1570)から朝倉氏奉行人を務めた。義景滅亡後織田信長に降ったが、天正2年(1574)府中城主富田長繁に謀殺された。訴訟の相手方の真木氏は詳らかでないが、立町郷の北隣、現在の福井市真木町の土豪と想定される(『朝倉氏五代の発給文書』)。

①法量:14.0㎝×34.7㎝
②法量:14.0㎝×43.5㎝
③法量: 14.1㎝×34.7㎝
④法量: 14.1㎝×34.7㎝

4点

鯖江市指定
指定年月日:20190329

個人

有形文化財(美術工芸品)

鯖江市立待地区に関連する中世文書だが、同地区馬場家に伝来した理由は不明。また、文書中にあらわれる「百姓 豊縄」と馬場家との関連も不明。

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