官板実測日本地図(畿内・東海・東山・北陸)
かんばんじっそくにほんちず(きない・とうかい・とうざん・ほくりく)
概要
官板実測日本地図(畿内・東海・東山・北陸)
かんばんじっそくにほんちず(きない・とうかい・とうざん・ほくりく)
「官板実測日本地図」は、伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」の小図3鋪をもとに、江戸幕府の洋学教育機関である開成所が慶応元年(1865)から慶応3年の間に刊行した日本図であり、「大日本沿海輿地全図」の唯一の刊行図である。「官板実測日本地図」は木版で3色に多色摺したもので、「北蝦夷」(樺太)・「蝦夷諸島」(北海道)・「畿内・東海・東山・北陸」(本州東半部)・「山陰、山陽、南海、西海」(本州西半部・四国・九州・琉球諸島)の4枚組からなる。
樺太、北海道内陸部の詳細、小笠原諸島、琉球諸島については、「大日本沿海輿地全図」に収載されていない。「官板実測日本地図」は「大日本沿海輿地全図」をそのまま板刻したわけではなく、江戸幕府が統治領域の範囲を示そうとした意図が見て取れる。実際、江戸幕府はこうした意図をもって、1867年のパリ万博開催にあわせて「官板実測日本地図」を刊行したことが知られる。
本図は、慶応3年に刊行した時と同じ版木を用いて、明治3年(1870)に大学南校が刊行した再版図である。地図行政は民部省地理司が掌ることになったが、近代的測量法に基づく「輯製二十万分一図」の製作開始は明治17年まで待たなければならなかった。維新後、明治政府は対内的・対外的に国土基本図たる地図が必要であるものの、「伊能図」の水準を超える地図製作は困難な状況であり、再版したと推測される。
「官板実測日本地図」は「大日本沿海輿地全図」の唯一の刊行図としてだけでなく、幕末維新期の幕府・明治政府の国土観、明治初期の地図行政のあり方を示す地図として重要である。