年未詳(1881~82年頃)3月26日付 渋沢栄一書簡(大橋半七郎宛) ねんみしょうさんがつにじゅうろくにちづけしぶさわえいいちしょかん おおはしはんしちろうあて

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文書・書籍 / 明治 / 富山県 

渋沢栄一 (1840~1931)
しぶさわえいいち
富山県高岡市
明治14~15年頃/1881~82年頃
紙本・墨書
縦13.0㎝×横168.9㎝
1通
富山県高岡市古城1-5
資料番号 1-01-162

 “近代日本資本主義の父”といわれる渋沢栄一(1)から、のちに高岡共立銀行(2)の支配人となる大橋半七郎(3)(当時は第一国立銀行(現・みずほ銀行)釜山支店主任と思われる)に宛てた書簡である。
 内容は朝鮮半島における第一国立銀行の釜山支店(明治11年(1878)6月開設)、及び元山出張所(同13年(1880)5月開設)の商況報告に対して、「大に都合よろしいことです」と回答している。そして、同16年(1883)1月に開港する「仁川港(4)開港手順」を(未だ面会できていないが)近藤(真鋤)領事(5)や花房(義質)公使(6)と協議したいともあり、渋沢の指導による第一国立銀行の朝鮮半島への経済進出(7)の一端がうかがえる(第一国立銀行の仁川出張所は同15年(1882)11月開設)。
 年代は記載されていないが、上記の内容から、明治14~15年(1881~82)頃と推察される。
 また、当時同行の行員であった志賀直温(8)(直哉の父)が登場したり、渋沢の揮毫を所望した大橋に対し、「甚だ以て迷惑千万」としながらも「しかし折角の所望なので次便にて認めたものを差し上げます」と言っている。
 渋沢は大橋を明治28年(1895)高岡共立銀行の支配人に推薦した。渋沢から大橋宛の書簡は明治14~大正13年(1881~1924)の長きにわたり、26通(9)(本史料除く)が知られ、その信頼関係がうかがえる。しかし、その中に本史料は見当たらず、平成30年(2018)に当館に寄託(上松徹氏蔵)された「明治38年1月23日付大橋宛渋沢書簡」に続く新発見史料と思われる。
 本史料は後半部で断裂しているが欠損はしていない。

《注》
※1【渋沢 栄一】しぶさわ えいいち (1840~1931)
実業家。武蔵国榛沢郡血洗島(現埼玉県深谷市)の豪農の生れ。倒幕運動に参加したが,のち一橋家に仕え
幕臣となる。1867年渡欧し新知識を吸収,維新後帰国し大蔵省に出仕,国立銀行条例制定などに活躍した。1873年退官後,第一国立銀行(のち第一勧業銀行、みずほ銀行),王子製紙,大阪紡績など500余の会社設立に関与し,朝鮮や中国への投資も企て,日本資本主義の発展に貢献した。1916年実業界を引退,以後は東京商科大学など実業教育機関の創設や各種の社会事業に尽力した。孫の渋沢敬三は民俗学者、日本銀行総裁、大蔵大臣などをつとめた。
明治28年(1895)年12月に設立された株式会社高岡共立銀行の支配人の人選を頼まれた際、第一国立銀行行員の大橋半七郎を推薦した。それ以来同行やのち合併する高岡銀行のために尽力した。大橋・木津らに対し、経営上のアドバイス、戒めや激励などの書簡を多数送った。また大正3年(1914)に高岡共立銀行が本館を新築する際、清水組(初二代は富山県人。現・清水建設)を紹介した。さらに同7年(1918)6月には高岡を訪れ、銀行のほか伏木や高岡各所を視察。また小中高校など多くの場所でスピーチを行っている。
(HP「百科事典マイペディア」平凡社、HP「公益財団法人渋沢栄一記念財団/渋沢栄一ゆかりの地/富山県/高岡共立銀行」、『たかおか 歴史との出会い』高岡市、平成3年)
 
※2【高岡共立銀行】たかおかきょうりつぎんこう
北陸銀行の前身の一つ。高岡商工会議所会頭などをつとめた実業家の5代・木津太郎平(1856~1903)ら13人の発起により、明治28年(1895)年12月に高岡守山町に設立された(初代頭取は東岩瀬の元廻船問屋・馬場道久)。これは同22年に高岡御馬出町に設立された、高岡銀行(正村・菅野家が中心)への対抗であった。木津や馬場は支配人の人選を第一国立銀行頭取・渋沢栄一に依頼。渋沢は同行員で高岡出張所主任の経験もある大橋半七郎を支配人に推薦した。大橋は翌年(1896)2月4日に着任、同月13日に開業となった。大橋の経営手腕は優れており、「高岡共立銀行は事実上この人によって建設されたのである」という(『高岡市史 下巻』)。
大正3年(1914)、本店を新築する際、渋沢から清水組を紹介され施工を依頼した。設計は辰野金吾の弟子・田辺淳吉。「赤レンガの銀行」として親しまれている。ちなみに同行の設計には辰野金吾が監修しているとされていたが、『建築雑誌』357号(日本建築学会、1925年6月)によると「設計者 工学士 田辺淳吉/施工 清水組京都支店」と明記されており、辰野の関与は無いことが明らかとなった。
同行はのち、同9年(1920)に高岡銀行と合併、さらに昭和18年(1943)には十二銀行、富山銀行、中越銀行との合併で北陸銀行となった。本店建築物はのち、富山銀行(1954年設立の地銀)本店となる。平成28年(2016)8月、富山銀行と高岡市は、市所有の高岡駅前ビル跡地の一部と、富山銀行本店・本部の用地を等価交換する基本協定を締結した。昨令和2年、赤レンガ棟は市に無償譲渡され、市はその保存活用に努めている。
(『高岡市史 下巻』1969、p527-530。HP「公益財団法人渋沢栄一記念財団/高岡共立銀行」、同「デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第5巻、p353-355。同「故渋沢子爵と吾が行(株式会社高岡共立銀行)」。HP「富山銀行/本部・本店ビル新築移転に係る高岡市との基本協定締結について」2016年8月1日。清水建設・松波秀子「田辺淳吉」(「INAX REPORT」No.170、INAX発行、2007年4月))

※3【大橋 半七郎】おおはし はんしちろう (1853~1934)
 銀行家。今の島根県出身。大橋幸三郎4男、孫六郎弟。第一国立銀行行員として、朝鮮の釜山浦支店主任(明治17年(1884)2月、朝鮮総税務司メレンドルフと海関税取扱条約を締結)、高岡出張所主任、札幌・福岡・門司・桐生・京都各支店長などを歴任。渋沢栄一の推薦を受け、同28年(1895)年12月、新たに設立された株式会社高岡共立銀行の支配人となる(のち監査、常務取締役、専務取締役)。高岡市内定塚町108番地に居住した。のち大正9年(1920)、高岡共立銀行は高岡銀行と合併した際には高岡銀行の常務取締役、同13年8月、取締役となる。また、高岡理化学工業、越中倉庫の各監査も務めた。妻けい(1863年生)は東京士族・服部国禄姉。養子・悌(1882年生)は第一銀行の各支店長を経て、渋沢倉庫監査。
(HP「近代名士家系大観/大橋半七郎 -澁澤系企業家-」2018年5月27日アクセス。『渋沢栄一伝記資料』2編、第5巻、p.353-360。『第一銀行年表』(株)第一銀行、1942年)

※4【仁川港開港】じんせんこうかいこう
  仁川(インチョン)は現大韓民国北西部、黄海に面する港湾都市。ソウルの外港。済物浦という小さな漁村だったが、明治9年(1876)の日朝修好条規により、同16年(1883)1月1日に開港してから国際貿易港として発達した。
   (HP「株式会社平凡社世界大百科事典(第2版)」2021年2月1日アクセス)

※5【近藤 真鋤】こんどう ますき (1840~92)
 医師、外交官。近江(滋賀県)出身。医学を学び、京都で開業。明治3年(1870)外務省に入り、同13年(1880)2月、釜山の初代領事となる。同15年京城在勤書記官・判事補・仁川領事。同年七月大院君の扇動による兵変(壬午軍乱)が起こり、公使館が暴徒の襲撃を受けたが、館員と協力し大被害を免れた。翌年帰朝し権大書記官。同17年参議井上馨特派全権大使に随行して朝鮮に赴任。帰国後、記録局長となるが同18年外務書記官を兼ね再び京城に勤務。翌年臨時代理公使・奏任一等中。同21年(1888)朝鮮国王に謁見。号は訥軒(とっけん)。
(HP「講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」2021年2月1日アクセス)

※6【花房 義質】はなぶさ よしもと (1842~1917)
外交官。子爵。岡山の出身。岡山学校,適塾に学び,1867年(慶応3)から1年間欧米を外遊。明治維新後,対朝鮮外交が対馬藩から明治政府に移管された際,72年に外務大丞として釜山の草梁倭館を接収した。77‐79年に元山開港問題,80‐82年に仁川開港問題にあたった。82年7月ソウルで壬午軍乱に遭遇,同年8月に,軍乱の事後処理としての済物浦条約および日朝修好条規続約を,金弘集らとの間で調印した。江戸時代の交隣関係から明治以降の近代国際法的関係へという,日本の対朝鮮外交の転換期にあって,その実務を外交の現場で担った。
   (HP「株式会社平凡社世界大百科事典(第2版)」2021年2月1日アクセス)

※7【渋沢の指導による第一国立銀行の朝鮮半島への経済進出】
   島田昌和「第一(国立)銀行の朝鮮進出と渋沢栄一」『経営論集』 9(1),1999年12月
   山田恭子「渋沢栄一と朝鮮 - 資料紹介」『近畿大学教養・外国語教育センター紀要. 外国語編』11(1),2020

※8【志賀 直温】しが なおはる (1853~1929)
実業家。陸奥中村藩(福島県)藩士志賀直道の子。志賀直哉の父。慶応義塾卒。明治一二年福島県の第一銀行に入る。同二六年総武鉄道創立に参加し、専務に就任。東洋薬品、帝国生命保険などの取締役も務めた。
(HP「講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」2021年2月1日アクセス)

※9 HP「公益財団法人渋沢栄一記念財団/デジタル版『渋沢栄一伝記資料』」(2018年6月8日アクセス)に25通が確認でき、その他、当館寄託の明治38年1月23日付 渋沢栄一書簡(大橋半七郎宛)がある。

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【釈文】
貴地本月七日附御書状、十五日到手拝見仕候、貴兄御途上無事、二月廿四日御帰店之由、且店中異状無之候趣、大悦仕候、
商況ハ不相替寂寒之姿ニハ候得共、少々荷為替望人も相生し、且元山出張店之義ハ一時大高貸銭ニ相成候故、御心配も被成候得共、此度ハ大坂・神戸等へ大高之荷為替も取組候為メ、差引尻減額相成候由、大ニ都合宜敷事ニ候、
貴店差引尻も夫意之為ニ減少候ニ付、此度大坂より現金取寄之御手配被成、壱人御遣相成候由ニて、其廻金方ハ増田充積及大坂店ニても心配中之様子申来候、最早差立候都合ニ相成可申欤、
昨日、志賀直温ニ承り候処ニてハ船便無之故、或ハ長崎迄大坂ゟ之為替取組御差立之仙之助ハ長崎ニて現金受取、貴方へ帰船候様為致候欤と申居侯、兎ニ角此度之便船ニて貴地安着と存候、
近藤領事ニハ駆違ひ、未タ面会不仕候、此間中花房公使 へ書返し、近々共ニ面接之上、仁川港開港 手順にも問合候様可仕と存候、是ハ増田ゟも大坂各店とも打合之由、申来候間、夫意心配仕候、
併公使も多事と相見へ、又小生も不相替多忙ニ付、未タに一会之期を得す候、 近日是非面会可仕候、志賀ハ両三日中ニ御請と候事承合可及、又ハ為副而之積ニ御座候、御省念可被下候、
拙筆御所望之由、甚以迷惑千万ニ候、併折角来嘱ニテ次便ニ相認さし上可申候、何分不文悪筆、只笑□海容ニ呈候迄と存候、
本店及内地各支店とも無事営業仕候、御省念可被下候、本年ハ二月中迄一般金融切迫、利足も非常ニ騰貴之処、本日ハ大ニ相緩み別而大坂ハ利足引下ヶ、即今ハ年壱割弐分ニても割り□候人有之候程ニ候有様、変化候も詰り一昨年之
商勢反動之有様ニて、却而物価低落之姿と相成候為メと存候、夫故米価ハ七円六七十銭、円銀も時としてハ壱円四拾六七銭迄引下候事有之候、実ニ変更不測ニ候間、貸出金等も常々注意を加へされ□禍害難免候ニ付、貴方も一層堅固ニ御取扱可被下候、
大坂・神戸・横浜共、米穀と生糸商人ニハ大損毛之もの頻々有之候、中々油断相成過候有様ニ候、
右ハ来状之御回答御旁、如此御座候、匆々再行、
   三月廿六日
     渋沢栄一

 大橋半七郎 賢契
尚々当用ハ役場状ゟ詳悉申進候筈ニ候、小生不相替多忙奔走いたし候、
此書状ニても漸夜分宅ニて執筆仕候次第ニ候、夫故店務ニ付而ハ只大要申上候迄ニ候、御諒察可被下候、

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