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絵葉書「高岡市桜馬場公園」

えはがき「たかおかしさくらばばこうえん」

概要

絵葉書「高岡市桜馬場公園」

えはがき「たかおかしさくらばばこうえん」

その他 / 明治 / 富山県

富山県高岡市

明治33~39年頃/1900~06年頃

紙・印刷(1色),彩色

縦10.0cm×横14.8cm

1葉

富山県高岡市古城1-5

資料番号 1-05-210

高岡市蔵(高岡市立博物館保管)

桜馬場公園の写真絵葉書である。モノクロ印刷のうえに、ピンクや緑色などが彩色された、いわゆる「手彩色」の絵葉書である。
記載事項は表面(通信面)に右読みで「郵便はかき」、「Union Postale Universelle.」(仏語:万国郵便連合)、「CARTE POSTALE」(仏語:葉書)。そして切手添付枠内には「内国行ニハ/壱銭五厘/外国行ニハ/四銭」とある。
裏面(写真面)には、「高岡市桜馬場公園」「SAKURA-NO-BANBA PARK IN TAKAOKA.」とある。
未使用。

【桜馬場公園】
江戸中期から昭和前期の北陸有数の桜の名所。前田利長が高岡築城の際に造成したとされる馬場が原形。『高岡史料』、『高岡沿革史』等によると、その範囲は大体、延長二百七十六間(約502m)、幅9間半(約17m)、面積8段7畝12歩(2,622坪)。
『続漸得雑記』に「慶長十五年(1610)出来、其節被為植候山桜の苗ハ、太田村(砺波市。金子氏/当館注、以下同)宗右衛門より指上候」とある。しかし、宗右衛門の他、戸出又右衛門、光明寺才二、開発左衛門ら十村に宛てられた「(寛永初年頃)三月二十六日付 田丸兵庫、うば桜献上ニ付廻状」(金子家文書)には「姥桜(江戸彼岸桜)急ぎ掘り候て、高岡へ持ち参り上げ申すべく候、(中略)山桜等の悪しきは御用これ無く候、木なり良き姥桜ばかりを掘り候て、この組中より三十四、五本程急ぎ明日中に上げ申すべく候」とある。
その後、延宝年間(1673~81)になると枯木が目立って来たので、時の町奉行に命じ、吉野の桜と舞子の松を取寄せて補充させた。のち見事な大木となり、延享の頃(1744~48)には花の名所として、三州にその名が知られるようになり、歴代藩主もその絶景を賞して保護を加えた。
明治3年(1870)5月16日、桜馬場を含む御旅屋10,804.4坪は高岡城跡と共に砺波射水郡治局により払下げて開墾せよと布達された。名所を惜しんだ町民(新横町・旅籠町・横川原町・下川原町)は、同年ここに遊郭を移設しようと請願、認可を受けたが実現しなかった。同5年、豊饒社社長・鳥山敬二郎(のち市長)は自社で買い取り、同23年市に寄付し、同35年(1902)公園となった。同42年、東宮殿下(大正天皇)行啓を迎えるにあたり大修理を加え、古城公園と連絡するため、北端を延長して定塚町通りまで突きぬけ、両側に桜を植えた。昭和4年(1929)、京都大学の小泉教授が北陸特有の新品種として「越の彼岸桜」と命名。同14年(1939)7月、県は桜馬場公園の「越の彼岸桜」を天然記念物に指定したが、自動車の往来が増加し、また戦時中の荒廃もあり樹勢は衰えた。同30年(1955)、公園は廃止され、残樹は伐採された(県指定解除)。それを惜しんだ多くの市民団体は「保存顕彰会」を結成して運動を開始。加茂善治氏の指導を受けながら、同34年に苗木55本、翌年に苗木80本を古城公園小竹藪に移植した。同37年、「越の彼岸桜」は市の天然記念物に指定。同44年には「市の花木」に選定された(平成17年解除)。
近年富山中央植物園の大原隆明技師らの調査研究で全国の「越の彼岸桜」には4つのタイプがあり、小竹藪の「越の彼岸桜」の中に一般に普及している品種より花びらが丸く波打って咲く新品種であることが判明した。平成20年(2008)大原技師は小竹藪に育つ桜のうち、他と違う新品種を「タカオカコシノヒガン」と命名し学会に発表、大きな関心を呼んだ。

<参考文献>
・間馬秀夫、朝倉吉彦『開町400年 名勝「高岡桜馬場」の追憶』2009年,私家版
・高岡市『高岡市史』下巻,1969年
・高岡古城公園公式ウェブサイト(http://www.kojyo.sakura.ne.jp/guidemap/odakeyabu/index.html)

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キーワード

公園 / 高岡 / 桜馬場 / 絵葉書

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