豊吉之墓 とよきちのはか

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その他 / 江戸 / 東北 

一関藩医菊池崇徳ほか
岩手県
江戸時代後期/1785年
石碑
高さ78㎝(台座石を含んで115㎝)、横24.5㎝(台座石103㎝)、奥行23.5㎝(台座石80㎝)
1基
岩手県一関市
岩手県指定
指定年月日:20110510
有形文化財(美術工芸品)

碑銘「豊吉之墓」以外の碑文は「天明乙巳年十一月十三日、賊豊吉者処斬、吾党十六人請屍於官、剥剔皮肉洞視心腹、以徴千歳之大疑焉、可謂於吾道有大功矣、於是謀諸同志建石、令其功与日月争爾  一関疾医菊池崇徳謹識焉」(常用漢字に翻刻)で、書き下し文は「天明乙巳〈きのとみ〉年十一月十三日、賊豊吉なる者斬に処す。吾党十六人官に屍を請い、皮肉を剥剔〈はくてき=解剖〉し心腹〈臓器〉を洞視〈見通し〉し、以て千歳の大疑を徴〈あか〉す。吾道に大功有ると謂うべきかな。是において諸同志に謀り石を建て、其の功を日月と争はしむるのみ。一関疾医〈藩医〉菊池崇徳謹んで識〈しる〉す」。
 関連史料として、一関藩士の原田家文書「評定方刑格」に、刑死人の遺体の下げ渡し願いに対する許可の文書が残っている。天明5年(1785)10月、藩医笠原中也と菊池玄和(碑文を識した菊池崇徳と思われる)名で小性頭に腑分けのための遺体下げ渡し願いが出され、藩は仙台留守居役磐井大助を通じて本藩の仙台藩に伺いを立てた上で11月8日に許可した。解剖は前掲のとおり11月13日に行われた。
 わが国における医学的人体解剖の初例(官許)は、宝暦4年(1754)に京都の医師山脇東洋によるものである。この記録は『蔵志』として刊行された。以後、近世を通じて40を超える例が確認されている。一関藩医による解剖は、山脇東洋の31年後であるが、東北地方においては米沢藩医による明和元年(1764)と安永8年(1779)の2例に続く3例目にあたる、初期の事例である。
 また、人体解剖の記念碑的な遺物は、現状では、宝暦4年(1754…

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