紙本白描不動明王図像
しほんはくびょうふどうみょうおうずぞう
概要
不動明王一八図、八大童子図一一図、薬廁〓、倶哩迦羅龍王各一図の計三一図の白描図像を描き、各図に詳細な注記を記す図像集である。巻頭は本紙が失われているが、図像の配列が通例の不動明王像から特異な図像へ進む傾向があるなかで、巻頭の一図は最も通例の不動明王像であることから、これより前に大きな欠失はないことが推測される。
絵画的にも各図は形象の把握、輪郭線、岩皴の筆法や、細部までも丁寧に描く描写などいずれにおいても本格的な優れたものである。
巻末の奥書に、本図巻は寛元三年(一二四五)五月、二六歳の僧兼胤が鎌倉において功徳院僧正の本を書写したものであることが記される。これまでの研究により、兼胤は正応四年(一二九一)、七二歳で「入唐求法巡礼行記」(国宝、岐阜・安藤積産合資会社所有)を写した天台僧で、本図巻を書写した寛元三年ころには、師の慈胤に従って鎌倉に下向していたこと、原本を所持していた「功徳院僧正」は『吾妻鑑』などに見える天台僧快雅で、慈胤の師にあたり、寛元三年には鎌倉にいたことなどが明らかにされている。鎌倉将軍家が多くの台密の僧を鎌倉に招き、そのなかで台密を代表する事相書である『阿裟縛抄』も鎌倉で編纂されており、本図巻が書写されたのも時流と軌を一にすると考えられる。
不動明王の第十四図には「右於高野図之」、第十五~十八図にも「右四躰、同於高野御山得之」とあるなど、台密の僧が積極的に東密の図像をも収集していたことがうかがわれる点も注目される。快雅は文治六年(一一九〇)三月、二五歳で曼殊院聖教中の『胎記』を書写しているのをはじめ、一三世紀初頭…