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藤原京跡
 朱雀大路跡
 左京七条一・二坊跡
 右京七条一坊跡

ふじわらきょうあと
 すざくおおじあと
 さきょうしちじょういち・にぼうあと
 うきょうしちじょういちぼうあと

概要

藤原京跡
 朱雀大路跡
 左京七条一・二坊跡
 右京七条一坊跡

ふじわらきょうあと
 すざくおおじあと
 さきょうしちじょういち・にぼうあと
 うきょうしちじょういちぼうあと

史跡 / 近畿 / 奈良県

奈良県

橿原市別所町・上飛騨町・高殿町・木之本町

指定年月日:19781004
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

S52-06-016[[藤原京朱雀大路跡]ふじわらきょうすざくおおじあと].txt: 藤原京は、持統天皇8年(694)から和銅3年(710)平城京に遷るまでの16年間の都であり、大極殿・朝堂院の跡を中心とする地域が特別史跡藤原宮跡として指定されている。
 藤原宮の南正門、すなわち平城宮、平安宮の朱雀門に当たる門については、戦前日本古文化研究所発掘の「朝集殿院南門」が、最近の再確認調査等の結果、藤原宮朱雀門に比定しうるまでに至ったが、この推定朱雀門から南に延びる朱雀大路については、昭和51年、橿原市の市営住宅建設に伴う発掘調査によって、幅4メートル、深さ0.4メートルの南北大溝2条が検出され、溝中から藤原宮跡と同時期の遺物が出土することもあって、幅21メートルの大路の存在が確かめられるに至った。
 この幅21メートルという規模は、平城京朱雀大路に比せば遙かに狭いが、藤原京朱雀大路の存在が確認されたことは、藤原京が中国の都城制に倣って計画されたことを考古学的に立証する有力な資料となるものであり、藤原京の全体像を解明する上で重要である。
 「藤原京朱雀大路跡」として史跡に指定される地域は、特別史跡藤原宮跡に接する南方地区のコモ池(別所池)に一部西接して、日高山の北裾に至る全長約200メートルの地域である。

令和3年 追加指定
藤原京は、持(じ)統(とう)天皇8年(694)に持統天皇が飛鳥(あすか)浄(きよ)御原宮(みはらのみや)から遷都し、元明(げんめい)天皇が平城京に遷都した和銅3年(710)まで存続した、中国都城に倣い条坊制を採用した我が国初の本格的都城である。その規模については諸説があるが、約5.3km四方の正方形との説が有力である。京跡の中心には大極(だいごく)殿(でん)や役所群、内裏(だいり)等からなる藤原宮跡(特別史跡として指定)が立地する。朱雀大路跡は、宮の正門である南面中門(朱雀門)から南に延びる都城のメインストリートである。路幅約24m(側溝心々距離)の道路跡で昭和53年に「藤原京朱雀大路跡」として指定された。左京七条一坊・二坊跡、右京七条一坊跡は、朱雀大路跡の両側に展開し、その北側を藤原宮跡と接する区域である。藤原京域における長年の発掘調査によって、宮跡を取り巻く条坊域は一町以上の宅地域で構成され、皇族・貴族を対象に街区が班給されたと考えられている。このなかでも特に宮の南面に接する七条域では、右京七条一坊西北坪で右京職関連施設、左京七条一坊で4町規模の衛門府関連施設の存在が推定される等、京内官衙施設も展開する重要な地域であることが判明してきた。こうした成果を踏まえ、平成23年に追加指定を行うとともに「藤原京跡 朱雀大路跡 左京七条一・二坊跡 右京七条一坊跡」と名称変更を行った。
今回、左京七条二坊跡で条件の整った部分を追加指定する。

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