秦益人刻書石
はたのますひとこくしょせき
作品概要
秦益人刻書石
はたのますひとこくしょせき
歴史資料/書跡・典籍/古文書 / 奈良 / 中国・四国
山口県
奈良中期/750
ほぼ将棋の駒型の石製品で、上部に口径1cmの穿孔、右側面に数条の線痕がある。穿孔の周囲は摩滅している。一面に10字、反面にも刻書があるが十分釈読できない。石質は蛇紋岩。
高さ23cm、幅15.9cm、厚さ3cm、重さ2.7kg
1点
山口市小郡下郷609-3
山口市指定
指定年月日:20131127
山口市
有形文化財(美術工芸品)
本石製品は発掘後ほぼ半世紀を経て、用途・歴史的役割がようやく明らかになった。同類の出土品は、埼玉(坂戸市宮町遺跡・滑川町大沼遺跡)・静岡(藤枝市山廻遺跡)・奈良(平城京左京三条二坊六坪)・福岡(福岡市博多遺跡・太宰府市大宰府条坊跡)・長崎(対馬市金田城跡)などの各県で発見され、用途は石錐・砥石・温石などとみられてきたが、竿秤の分銅(吉川真司氏)とみて不都合はない。重量は約2.7kgあり、かなり重い物資の計量に利用されたことになる。上部の穿孔は周囲が磨耗し、紐などを通して使用されたのが分かる。右側面に残る線痕は砥石としての二次的な用途を示す。刻書の地名記載(国-)郡-郷は天平11・12年に改定された地方行政組織を示し、字形・筆法は楷好な初期唐様の方筆に特徴があり、刻書の時期は奈良中期であったと推定できる。山口市小郡上郷仁保津は当時現山口湾が椹野川上手に湾入し、仁保津は海津の機能を持ち、出土地は椹野川右岸の河岸段丘状傾斜面で付近に公的施設の存在をうかがわせる。吉敷郡家か、その出先施設で稲穀などの収納・計量のために使用されたともいえるが、付近一帯の東大寺領椹野荘は造東大寺司によって播磨国垂水荘・赤穂荘などと同時期(天平勝宝年間)に占定され、また飾磨郡には東大寺封戸も指定されている。播磨国から荘使などが派遣され、開発・経営にあたった荘所などが立地したのであろう。本石所有の秦益人は、大堰川から取水した葛野大堰の造営など先進的な開発事業を推進した新羅系氏族の後裔で、播磨国から椹野荘の運営目的で渡来したのであろう。秦氏と播磨地方との関係は新羅王子天日槍の来着伝承を…