波爾布神社本殿
はにふじんじゃほんでん
概要
波爾布神社は饗庭集落の氏神で、平安時代前期に編纂された延喜式神名帳に記載されている式内社である。戦国時代に社禄を失い衰えたが、明応5年(1496)に後土御門天皇の勅旨により社殿を再興、領地も旧に復したと伝えられている。
本殿は高島市が行った調査により確認された棟札から、江戸時代初期の元和10 年(1624)に建立されたことがわかる。建立後は、正保3年(1646)に修理、延享4年(1747)と明和3年(1766)、寛政元年(1789)、昭和8年(1933)に屋根の葺き替えを行った記録がある。
身舎正面の庇を前室とし、さらにその前に向拝を付加する平面形式は、滋賀県内の中世の神社本殿によく見られる形式であり、柱は身舎を丸柱、庇と向拝を角柱、組物は身舎を舟肘木、庇と向拝を三斗として使い分ける点や、木鼻や虹梁などの絵様彫刻などに中世の趣をよく残す一方、装飾性の強い立体的な蟇股や、手挟の厚肉の籠彫り彫刻など、装飾細部に江戸時代初期の技法を示す。
本殿側面に床下への出入口を設けるほか、床下内部で柱を1本抜き、床組より下部に足固貫などの柱を繋ぐ材を用いず、建立当初から床下を利用しようとした意図が伺える。また、床上、床下とも内部は煤により黒く変色しており、本殿床下で僧侶が護摩を焚き、読経したと伝えられており、近世の神社祭祀の一形態を示していると考えられる。
後世の修理や一部の柱間装置に改造があるものの、全体として部材の取り替えや改造が少なく、保存状態が良好で、建立時の形式を復原することが可能である。
痕跡から復原できる建立当初の形式や床下で祭祀を行った痕跡は、県内の他の地域で同時代に建てられた神社本殿には確認できない特徴であり、中世から近世への変遷を示す事例として、また湖西地域北部の数少ない江戸時代初期の神社本殿として、さらに近世の神社祭祀の一形態を示した建物として貴重である。