松図
まつず
概要
本資料は、高岡市の俳人/俳画家・筏井竹の門作筆「松図」である。
何本もの松の樹の枝が、方々にうねるように伸びている様子が画面いっぱいに墨で描かれており、松の樹の木肌や枝の節々が墨の濃淡で巧みに表現されている。松葉の部分は緑色でうっすらと彩色がなされている。下部の点画は地面の表現であろうから、正面から見た松の樹をあえて独特な歪みを持たせ、枝が本来の姿よりも過剰に湾曲しているさまを描いているように思われる。また、絵の雰囲気から、松の樹を真上から見下ろすような、俯(ふ)瞰(かん)のアングルで描かれているのではないかとも思われる。そして、紙からはみ出すように描かれた松の樹が、縦長の画面に切り取られることで、かえってスケール感のある印象を見る者に与えている。
画面左上には落款「竹の門生」があり、その下に印章(朱文方印「虎」)が捺されている。竹の門は明治44年(1911)日本画家・富田渓仙との出会いにより俳画に目覚める(江沼半夏『筏井竹の門覚書』折柳草舎、1990年、36~43頁)ので、本資料も大正期に描かれたものであると推測される。
なお、表装はされておらず、マクリの状態である。また、所々にシミ、破れ、経年によるヤケがあるものの、資料状態は概ね良好である。
【筏井竹の門(いかだいたけのかど)】
1871・11・28~1925・3・29(明治4・10・16~大正14)俳人・俳画家。名をたけのもん,とも呼ぶ。北雪(ほくせつ)・四石(しせき)の別号がある。本名は虎次郎,旧姓向田(むくた)。旧金沢藩士の家系。金沢市に生まれる。1892年(明治25)高岡に転居,繊維商に勤務。97年日本派俳句会越友会(えつゆうかい)の結成に参画。1900年高岡大火後の住居を〈松杉窟(しょうさんくつ)〉と呼び,各地の俳人が来遊した。河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)に師事し,越友会の指導者,『高岡新報』俳壇の選者として俊鋭清新な作句と温雅な人格で後輩を誘導,俳誌『葦附(あしつき)』の刊行,浪化忌の開催など越中俳壇に貢献する。大正期には自由律俳句に向かう。また冨田渓仙(けいせん)・小川芋銭(うせん)らと親しく往来して俳画に打ち込み,多数の淡彩墨画を遺(のこ)す。句集・歌集・遺墨集4種がある。享年55歳。高岡古城公園に〈宴(うたげ)つづく思ひの朝寝さへづれり〉の句碑がある。〈労働祭の踏みあらした草の雨あがる〉(1927年『竹の門遺墨集』)は最晩年の作。⇔寺野守水老,山口花笠,内島北朗〈江沼半夏〉
HP『電子版 富山大百科事典』(2017年8月22日アクセス)
※参考資料
・『筏井竹の門作品集』(高岡西ロータリークラブ、1983年)140頁、付属「印譜」
・『筏井竹の門覚書』(江沼半夏著、折柳草舎、1990年)36‐43頁