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俳諧 百一首図屏風

はいかい ひゃくいっしゅずびょうぶ

概要

俳諧 百一首図屏風

はいかい ひゃくいっしゅずびょうぶ

日本画 / 江戸 / 富山県

梅田 年風  (1791~1846)

うめだ としかぜ

富山県高岡市

江戸時代後期/1832年前後~1846年9月

紙本墨画、淡彩。墨書。

〔本紙〕各扇 縦131.9㎝×横54.9㎝ 〔全体(表具含む)〕各隻 173.3×350.7

2(6曲1双屏風)

富山県高岡市古城1-5

資料番号 3-01-01-92

 加賀藩の御用絵師で俳人の梅田年風(8代九栄(きゅうえい)(※1))筆の屏風である。俳諧(※2)の百人一首というべきもので、芭蕉以下著名な俳人百人の肖像画とその秀句が描かれている。この形式を生み出したのは、現富山県高岡市戸出の俳人・尾崎康工(こうこう)(1702~79) (※3)であり、そのベストセラー『俳諧百一集』(1765年)(※4)による。
 本資料各隻には共に第6扇左下に落款があり、どちらが右隻か左隻か判別し難いが、仮に第3扇に芭蕉(祖翁)が描かれるものを右隻とした(左隻は第1扇に与謝蕪村(※5))。落款は共に「応是々雅君需(是々雅君の求めに応じ)、八椿舎(康工の号)か/一百首にならひ、絵は夜半翁(左隻は春星。共に与謝蕪村の号)の/遺図をうつす、年風(朱文長方印「翠台(年風の号)」)」とある。「是々雅」(不明)の需(求め)に応じて年風が描いたことが分かる。そして、句は康工『俳諧百一集』にならって選び、絵は与謝蕪村の「遺図」を元に描いたともある。
 「百一集」と本資料掲載の俳人・俳諧を比較すると、まず本資料は表具の順がバラバラであることがわかる。「百一集」の掲載順であれば、一番の芭蕉が左右いずれかの第1扇にくるべきであろう。屏風への表装は後世に行われたものと考えられる。そして、落款には康工「百一集」にならったとあるが、本資料の39句が「百一集」とは異なる句が記されている。しかし、人選は100人中99人が同じである。その異なる1人は福野の田中其汀(掲載順№82)が削られ、蕪村が新たに加えられている。他には句は同じだが漢字・仮名など用語の異なるものは45句認められる。
 そして、「絵は蕪村の遺図を写した」と落款にあるが、「遺図」とは蕪村の「三十六俳仙図」と思われる(※6)。この図は康工自らが描いたという「百一集」の(似ているかもしれないが)少々固く生真面目なタッチとは大きく異なり、洒脱な雰囲気の俳画である。本資料の肖像とも極めて類似性が認められ、年風が大いに参考にしたことがうかがえる。
 そして、年風には本資料類似の「俳諧百一首図」の6曲1双屏風が2件(石川歴博図録作品№30・32)、12幅の掛幅(№31)が1件あり(※6)、彼の代表作ともいえる人気画題であったことがわかる。したがって本資料はその4件目の確認例となる。人物の配置などの内容から、掛幅に最も近く、次いで№30の屏風に類似しているが詳細は今後の調査を要する。ちなみに、№30の屏風には「下絵(№29)」もあり、それらの落款を意訳すると、「天保3年(1832)10月、図画は蕪村の遺志(「三十六俳仙図」)に倣い、秀句は康工の「百一集」を元に或いは補い、或は削除してこれを描いた」となる。本資料の落款と同じ趣旨と分かるが、年代が明記されており制作年代を推察するうえで貴重な情報となる。つまり、おおよそ天保3年前後より、年風が死去する弘化3年(1846)9月までの制作ということが考えられる。
 また、本資料の落款に「是々雅君の需(求め)に応じて」年風が描いたとあることから、他にも作成された可能性が考えられる。
 本資料は旧蔵者・吉田家の誰がいつ収集したものかは不明である。吉田家は新川郡江上村(現上市町)で代々十村や山廻り役を務めた家柄といわれ、江戸後期には日本画家・吉田公均(こうきん) (1804~76) (※7)を出した家でもある。また、箱書きに「本江」とあるのは近代に江上村より転居した現魚津市本江であるという。後補と思われるこの箱は、本江時代に製作したとわかる。
 本資料は越中戸出・尾崎康工の著作から発祥した慣行による美術作品であり、加賀藩をはじめ当時の全国的な俳諧文化の興隆を示す貴重な歴史的資料といえよう。


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【注】
※1 梅田 年風 うめだ としかぜ  寛政3(1791).6.1~弘化3(1846).9.18
加賀藩の御用絵師。俳人。8代九栄。6代九栄の子として生まれる。7代九渕(きゅうえん)の弟。名は周直(しゅうちょく)、季信(すえのぶ)、通称は九栄、赤陵斎(せきりょうさい)と号し、剃髪後は菅阿弥(すがあみ)といった。俳人としては年風、自在坊と称した。幼少期に父6代九栄と兄7代九渕に絵を習った。文化3年(1806)、兄の九渕が28歳で死去したため、跡目を継いだ。同6年、19歳にして前年焼失した金沢城二ノ丸御殿の障壁画制作に参画。のち御広式の屏風、御輿の内貼の絵、後年、竹沢御殿造営中に種々の絵の御用を受け、天保4年(1833)、同11年(1840)と御絵図御用を仰せつけられた。また、俳諧を桜井梅室(ばいしつ)に学び、加えて蕉門十哲の一人・立花北枝(ほくし)の趙翠台(ちょうすいだい)(翠台)の庵号を受け継ぎ5世となり、更に北枝堂も称した。また「芭蕉翁頭陀袋」を所蔵した。文政7年(1824)、句集『其如月』を著した。天保4年、43歳のとき、金沢心蓮社の立花北枝の墓を修築した。
(石川県立歴史博物館図録『御用絵師 梅田九栄と俳諧 -芭蕉の教えを守った男-』平成20年)

※2 俳諧 はいかい
  室町末期、連歌から生じた五・七・五、17文字の短詩。室町末期、山崎宗鑑・荒木田守武らによって洒落・滑稽を主とする俳諧連歌が派生。江戸初期、松永貞徳の貞門派、ついで西山宗因の談林派、元禄期(1688~1704)の松尾芭蕉の蕉風がおこり芸術として高められたが、このころは前句付(まえくづけ)または発句(ほっく)と呼ばれた。その後盛衰を経て天明期(1781~89)の与謝蕪村、化政期(1804~30)の小林一茶らが注目されるが、以後明治時代まで低俗に流れ、明治期に正岡子規・高浜虚子らの俳諧革新運動がおこり、俳句と呼ばれるようになった。
(「旺文社日本史事典」三訂版)

※3 尾崎 康工 おざき こうこう  元禄14(1701).?.?~安永8(1779).3.6
 江戸時代中期の俳人・俳画家。越中(富山県)砺波郡戸出の古武屋孫右衛門の3男として生まれ、のち別家。通称は沢屋伊兵衛。別号に八椿舎(はっちんしゃ)、六壁庵(りっぺきあん)。「康工」は「やすよし」とも。蕉(正)風伊勢派の中川乙由(おつゆう)(麦林(ばくりん))や金沢の和田(綿屋)希因(きいん)に俳諧を学ぶ。40歳頃、蕉風に心酔し、諸国を歴遊した。芭蕉も慕った木曽義仲を慕い、二人の墓のある義仲寺(ぎちゅうじ)(滋賀県大津市)に長く留まり墓守をしていたという。伊勢派の麦浪(ばくろう)、麦水(ばくすい)らと並び平明な風調をもって、その俳画と共に知られた。明和2年、俳人100名の画像と代表句一句をあげた「俳諧百一集」を刊行した。また芭蕉百句の評釈「金花伝」(上下2巻、1773年刊)では杉坂百明と論争になり、のち「武越文通(仮)」(1776年刊)にまとめた。他に「蕉句後拾遺」(1774年刊)、「西住墳記(さいじゅうふんき)」(1774年刊)など。また加賀の千代女と親交があり、その追悼句も詠んだ。晩年は戸出に「六壁庵」(現太玄寺(たいげんじ))を結び、門弟の育成に励んだ。享年79。死後、門人らは俳諧額を砺波・千光寺(1791年)と戸出・永安寺(1795年)に奉納した。また六壁庵跡には康工の句碑「夕顔塚」(灯もひとつまた夕顔の見えにけり)が建てられた(1813年)。
(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」、竹谷蒼郎『要説 俳諧百一集』(昭和41年、石川県図書館協会)、同『百一集と芭蕉新巻』(昭和50年、金沢工業大学)、当館常設展ガイドブック『高岡ものがたり』(平成20年))

※4 尾崎康工編『俳諧百一集』 はいかいひゃくいちしゅう  明和2年(1765)刊
 戸出の俳人(蕉風伊勢派)・尾崎康工の編著。京都・橘屋治兵衛版、康工自序、金沢・水竹散人跋(ばつ)。俳諧初心者への入門書として、芭蕉以下名のある百人の俳人を選び、自ら肖像画を描いて、その代表的な秀句を掲載し、短評を添えている。全国を遊歴して各地の俳人と交友をもった康工ならではの肖像画であり、その資料的価値は高いと思われる。本書の自序冒頭には「歌に百人一首あり、連歌に連歌仙あり」とあり、“俳諧の百人一首”を目指して編集されている。その掲載順はほぼ活躍年代に沿っており、守武(掲載№2)、宗鑑(3)、貞徳(5)、貞室(6)、立圃(りゅうほ)(7)、重頼(じゅうらい)(8)、季吟(きぎん)(9)、宗因(そういん)(11)を経て芭蕉(1)が登場する。次いでその門人の去来(きょらい)(15)、其角(きかく)(12)、丈草(じょうそう)(16)、嵐雪(らんせつ)(14)、凉菟(りょうと)(17)、北枝(19)、許六(きょりく)(18)、支考(しこう)(13)などが続き、最後は師の希因(99)、麦林(100)で締めている。越中の俳人は9人。康工(96)をはじめ、井波の浪化(ろうか)(36)、交琴(こうきん)(83)、富山の麻父(まふ)(70)、福野の其汀(きてい)(82)、戸出の弁三(56)、岸虎(がんこ)(71)、或静(わくじょう)(95)、高岡の汪由(おうゆう)(92)である。加賀は計23人。うち金沢は北枝(19)、一笑(28)、凡兆(ぼんちょう)(43)、句空(42)、従吾 (54)、素心尼(60)、舎朶(しゃだ)(63)、禹洗(うせん)(72)、左菊(74)、封卜(ほうぼく)(81)、大阜(たいふ)(85)、闌更(らんこう)(90)、麦水(87)、希因(99)、珈涼尼(かりょうに) (69)、万子(まんし)(33)、秋之坊(34)、既白(きはく)(93)の18人。ほか生可(せいか)(73)、可枝(かし)(91)、松任の千代尼(68)、津幡の見風(けんぷう)(77)、小松の左静(58)の5人がいる。能登は七尾の司鱸(しろ)(62)、晩九(ばんきゅう)(79)、馬明(ばめい)(94)の3人がおり、加賀藩領(加越能三州)では計39人もの多くを数え、当地、及び伊勢派に属した俳人を重視する康工の編集方針がうかがえる。注目すべきは、当時既に名のあったはずの蕪村(江戸の嵐雪・其角系の巴人(はじん)の門人)の掲載がないことであろう。また上級・下級の武士や町人、職人や僧侶などあらゆる階層の人物がいる。ちなみに女性は8人採録されている。
 本書は近世後期の蕉風興隆を追い風に好評を博し、3版を重ねた。更に嘉永3年(1850)に金沢の俳人・直山大夢が改訂・重版しており、ロングセラーかつベストセラーであったことがわかる。本書の影響は大きく、蕪村「三十六俳仙図」や芳園の『俳諧百家仙』(1796年)や、本資料を含む梅田年風の「俳諧百一首図屏風」につながっていく。
 本書は当館にも所蔵がある(尾崎家文書)。翻刻・解説は竹谷蒼郎の『要説 俳諧百一集』(昭和41年、石川県図書館協会)と『百一集と芭蕉新巻』(昭和50年、金沢工業大学)などがある。
(石川県立歴史博物館図録『御用絵師 梅田九栄と俳諧 -芭蕉の教えを守った男-』(平成20年))

※5 与謝蕪村 よさぶそん  享保元年(1716).?.?~天明3年(1784).12.25
江戸中期の俳人・文人画家。本姓谷口、画号謝寅(しゃいん)。摂津(大阪府)東成郡の富農の出身。江戸で早野巴人に俳諧を学び、また書・画・漢詩をおさめ、のち京都に定住。文人画の大家として池大雅と並称され、合作の『十便十宜図』は有名。また蕉風俳諧を信奉して、絵画的・ロマン的な句で俳諧を中興した。著書に句集『蕪村七部集』など。また『奥の細道図屛風』など俳画の確立者でもある。
(「旺文社 日本史事典」三訂版)

※6 石川県立歴史博物館図録『御用絵師 梅田九栄と俳諧 -芭蕉の教えを守った男-』(平成20年)p19

※7 吉田 公均 よしだ こうきん 享和4年(1804).?.?~明治9年(1876).?.?
日本画家。新川郡江上村(現富山県上市町)に吉田直四(なおし)(亀十郎)の3男として生まれる。家は代々十村(とむら/大庄屋)や十村分役の山廻役を務めた豪農という言い伝えがある。字は平吉。広均(のちに公均)・田均・江上逸史などと号した。幼いころから絵を描くことを好み,絵馬を村の神社に奉納したりしていたが,その運筆・彩色ともに優れて嘆賞しないものはなかったという。13歳の時,その画才をみとめた東江上村浄泉寺の住職福井重源(浄心房充賢)が父を説得し,京都に伴って宮廷画家紀広成(山脇東暉)に師事させた。広成は多くの画幀を所蔵しており,それらを模写して画風を学ぶとともに,郊外に出て花鳥の写生に努めたという。1842年(天保13)広成が病死した後,四条派の大家松村景文に師事,その徹底した写実の精神を身に付ける。また貫名海屋(菘翁)の門下生となって南画を学び,18世紀に来朝した清の伊孚九(いふきゅう)や沈南蘋(しんなんぴん)の伝えた〈没骨(もっこつ)画法〉といわれる中国画における彩色画法も取り入れた。55年(安政2)に京都御所が新造されたとき,650人余りの中から特に選ばれて御学問所の杉戸に「花車図」を描き,孝明天皇の御意にかなったという。廃藩置県後は東京に居を移しているが,死没地については数説あって定かではない。生没年についても定かでなく,篠島久太郎『越中史略』に〈明治十二三年の頃西京にて卒す歳六十五〉,『越中史料』「中新川郡宮川尋常小学校報告」に〈明治九年京師ニ卒ス,歳七十三〉とあるが,75年(明治8)晩年の作と伝わる「春山仙院」には〈時歳七十一公均〉の字が読める。代表作として「雪の嵐山の図」,城端善徳寺「松の図」,東楽寺「高士観瀑図」などがある。〈八木宏昌〉
(「富山大百科事典(電子版)」北日本新聞、2010年)

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キーワード

蕪村 / 俳諧 / 芭蕉 / 与謝

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