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絵葉書「利長公御廟並繁久寺禅堂」

えはがき「としながこうごびょうならびにはんきゅうじぜんどう」

概要

絵葉書「利長公御廟並繁久寺禅堂」

えはがき「としながこうごびょうならびにはんきゅうじぜんどう」

その他 / 昭和以降 / 富山県

富山県高岡市

昭和8~19年頃/1933~44年頃

紙・印刷

6葉

富山県高岡市古城1-5

資料番号 1-05-149

高岡市蔵(高岡市立博物館保管)

①縦8.9cm×横14.0cm
②縦9.0cm×横14.0cm
③縦9.0cm×横14.0cm
④縦9.0cm×横14.0cm
⑤縦9.0cm×横13.9cm
⑥縦8.9cm×横14.0cm

繁久寺と前田利長墓所の絵葉書である。すべて未使用。
①は「開山堂並書院」とあり、繁久寺敷地内にある開山堂と書院の内部の様子である。
②は「桜雲ノ八丁道 瑞龍寺の遠望」とあり、この写真から八丁道は松と桜が交互に植樹されている様子が確認できる。
③は「新築坐禅堂・繁久寺本堂」とある。
④は「仙寿山繁久寺」とあり、正面入口の様子である。
⑤は「前田利長公御廟」とあり、石塔と石灯籠が連なる墓所の正面全景写真である。
⑥は「利長公御廟参道」とあり、今も残る石灯籠と鬱蒼と茂る木々の様子が確認できる。

宛名面には、「UNION POSTALE UNIVERSELLE」、「CARTE POSTALE」とある。また、右読みで「郵便はがき」と1/2線があることから、絵葉書の作成年代は昭和8~19年(1933~44)と推定できる。
タトウが付属しており、表面には剣梅鉢紋と「利長公御廟/繁久寺禅堂」とある。


前田利長墓所
 利長33回忌にあたる正保3年(1646)に利常により造営された。2重の堀に囲まれた1万坪(3万3千㎡)の広大な広さをもつ。平成21年(2009)2月21日には利長墓所が金沢市の野田山前田家墓所とともに「加賀藩主前田家墓所」として国史跡に指定された。
 前田利長墓所は約180m四方の正方形の区画で、外堀・内堀の2重の堀に囲まれている。中心に15m四方の正方形の御廟が位置し、墓の上までの長さが11.9mある。碑面には、当初「瑞龍院殿贈亜相正二位聖山英賢大居士」と刻まれていたが、前田家では明治7年(1874)に従来の仏式法会を廃し、神道の祭典に改めたため、同11年に碑銘を「贈正二位行権大納言兼肥前守菅原朝臣利長之墓」と改刻された。
 墓域には大小の石灯籠47基があり、うち墓標に向かって右側には高さが6.8mのものがある。これは当初一対で設置する計画だったが、石を大坂から船で運ぶ際千保川から陸揚げしようとしたところ、一部の石が転落し片方は設置できなかったといわれる。一部は高岡市鴨島町の教恩寺に残っており、現在は石碑の台座に使われている。
御廟は全面を戸室石で覆い、立面は江戸初期の絵師・狩野探幽下絵と伝えられる蓮の花の彫刻が130枚ある。また御廟は土盛の方形墳丘を内部にもち、その周囲をこぶしぐらいの大きさの栗(ぐり)石を充填し、その外壁部分は戸室石による石柱や蓮華図のパネルを貼り付けている。歴代藩主の中で、唯一利長だけが金沢の野田山と高岡両方に拝墓と本墓がある。

繁久寺
 前田利長墓所の墓守寺。山号は仙寿山。正保3年(1646)に利常の命により利長の33回忌を契機として造営され、50石の知行所が与えられた。
 繁久寺は、射水郡南条の城主・加納中務が永禄5年(1563)に今の氷見市飯久保に建立し、高岡に移転し、片原町にあったともいわれているが詳細は不明である。伊藤内膳の推挙により御廟守に選ばれた。安政6年(1859)に寺が焼失し、現在の建物は文久2年(1862)に再建されたものである。明治3年(1870)に繁久寺は墓守の任を解かれ、寺禄が停止されたが、同19年(1885)調製の当寺明細帳によれば、開山は確翁契播和尚で、繁久寺にも射水・砺波に5つの末寺があったとある。
 慶安5年(1652)には、利常は墓所に「火灯人・掃除小者」(世襲制。墓の付近に居住)とよばれる役職を置き、その扶持料として90石を与え、日夕仏前墓前の勤めと境内の管理を怠らないよう命じた。

八丁道
 墓所と繁久寺を結ぶ参道。東西に長さが8町(丁とも。1町は約109.09m)=約870mあることから八丁道とよばれる。幅員15間余で両側に舞子浜産(石川県美川町)の老松が並び、両側に赤間石の石灯籠が真向に建設、五ヶ所用水橋には有名な砥石を使用した。
 明治7年(1874)に繁久寺住職は官許を得て老松を伐採し、その用材の1/3を育英小学校新築のために寄付したが以降は道幅も狭くなり、灯籠の紛失などで荒廃が進んだ。明治末期には墓所と八丁道を整備し、石灯籠を新調した。
大正期に入ると、同2年(1913)就任以来、鳥山敬二郎高岡市長は古城公園や桜馬場公園だけでなく八丁道の修復整備も行ない、八丁道に塩釜桜と八重桜の苗木を道の両側に植樹した。大正末期頃には松と桜、灯籠の参道に整備されている。
 昭和期には、同25年(1950)の整備事業で中央が車道となり、松と桜の植栽の両外側が歩道になった。同40年(1907)には灯籠もなくなり、石造物も消え、植栽だけとなったが、現在は一部復元されている。

参考文献
・『高岡市史』下巻(高岡市役所、昭和44年)
・『高岡 歴史的遺産「八町道」』(八丁道献灯委員会、平成2年)
・『高岡市 前田利長墓所調査報告』(高岡市教育委員会、平成20年)
・北日本新聞「高岡開町400年新聞」(栗山雅夫氏執筆、平成21年3月14日発行)
・常設展ガイドブック『高岡ものがたり』

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利長 / 墓所 / 前田 / 高岡

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