唐物茶壺(松花)
からものちゃつぼ しょうか
概要
唐物茶壺(松花)
からものちゃつぼ しょうか
愛知県
南宋~元時代/1201-1400
肩の四方に耳をつけた中国製の大型四耳壺で、素地は鉄分を多く含んだ灰色陶胎をなし、器表は黒褐色から赤褐色に焼け焦げる。粘土紐造りの後、器壁を叩き締め轆轤調整する。肩から胴上部には一部に径四〜五センチメートルほどの丸い叩き痕が残される。胴は肩が張り、口頸部はやや小さく、短くすぼまって立ち上がり、口縁端部は玉縁に仕上げる。口頸部の基部には箆による太い沈線を二条廻らす。肩上部の四方には粘土板による横耳を貼り付ける。胴下半はわずかに丸みをもってすぼまる。底は板起こしで、平底とする。
外面には胴下半まで白化粧土を施すが、胴下部から底部は土見せとする。一部は淡赤褐色を呈し、裾は流条化して底に向かって流れ、幾条ものなだれを作る。胴上半の化粧土の上には灰釉を施し二重掛けとする。灰釉は暗黄緑色を呈し、全体に胡麻のような小さな黒斑が見られ、釉の裾には一部青色を呈する釉溜まりを作る。
高39.7 口径11.6 胴径33.2 底径12.7(㎝)
1口
徳川美術館 愛知県名古屋市東区徳川町1017
重文指定年月日:20050609
国宝指定年月日:
登録年月日:
公益財団法人徳川黎明会
国宝・重要文化財(美術品)
唐物茶壺は中国南部を中心に広く焼造された四耳壺で、香辛料などの貯蔵容器として用いられ、一一世紀後半には生産されていたと考えられている。喫茶の伝来とともに一三世紀代にはわが国に将来され、その機能性より葉茶壺【はちゃつぼ】として用いられたと推測されるが、記録では『師守記【もろもりき】』の興国元年・暦応三年(一三四〇)正月三日に記された「引出物茶壺」が初現とされ、また水戸徳川家に伝来する唐物茶壺・銘弾正の底部には「貞和二」(一三四六年)の墨書があり、これらの資料より一四世紀前半には確実にわが国に将来され、葉茶壺として用いられていたことが知られる。室町時代には瀬戸窯、信楽窯、丹波窯、備前窯などでも唐物茶壺を模した四耳壺が焼造され始め、しだいに盛行していったことが知られる。また『満済准后【まんさいじゅごう】日記』の永享六年(一四三四)二月四日には「葉茶壺九重ト号名物」という記述があり、すでに銘が与えられて、各種の茶道具の中でも最も早く名物と称されていたことが知られる。
唐物茶壺は本来葉茶を保存するための実用的な容器であったが、天文年間(一五三二~五五)ころからは唐物茶壺を用いた茶壺飾りが書院や広間の床で行われるようになり、最も普及したのは豊臣秀吉が茶の湯に力を注いだ天正年間(一五七三~九二)中期ころからとされ、唐物茶入とともに茶道具において格別に扱われた。織田信長や豊臣秀吉などの戦国大名が、戦功のあった武将への褒美として唐物茶壺を与え、優に一国一城、数万石、ときには十数万石の恩賞に価値するとさえも評された。
本茶壺はもと管領・斯波【しば】氏所持と伝え、村田珠光【しゅこう】、北向道陳【きたむかいどうちん】、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に伝わり、駿府御分物として徳川義直へ譲られ、尾張徳川家に伝来したもので、茶道具における唐物茶壺のあり方を如実に示す貴重な遺例の一つである。
本唐物茶壺は、現存する唐物茶壺の中では古来最も著名ないわゆる大名物で、茶会記等の記録にも最も頻繁に登場する。名物記を著した山上宗二【やまのうえそうじ】はその『山上宗二記』において「天下に松島・松花・三ケ月と三つの名物」と述べるが、松島、三ケ月は本能寺の変により焼失し、現存するのはこの松花のみであり、本作品により名物唐物茶壺の典型を知ることができる貴重な遺例である。
茶会記の記録には天文十一年(一五四二)四月九日松屋久政茶会(『松屋会記』)に初めて確認され、天正年間には津田宗及他会(『天王寺屋会記』)にたびたび認められる。また天正十五年(一五八七)北野大茶之湯では豊臣秀吉の亭において今井宗久の道具として用いられた。
本作品は、現存する最も典型的な唐物茶壺を代表する作品であり、素朴ながら端正な形姿に、二重掛けされた白化粧土や灰釉も一部が流条化してなだれかかり変化ある釉景色を作り出す。いわゆる大名物であり、当時の大茶人や権力者の所持が確認され、唐物茶壺を代表する遺例として、茶道文化史上貴重な作品である。