十二天像
じゅうにてんぞう
概要
十二天は、もとインド古代神などが仏教にとり入れられて護法神となったもの。帝釈天(東)、火天(東南)、焔摩天(南)、羅刹天(西南)、水天(西)、風天(西北)、毘沙門天(北)、伊舎那天(東北)までの天が各方位にあてられてはじめ八方天として成立した。これに梵天(天)、地天(地)、日天(日)、月天(月)が加わって十二天となる。わが国の十二天像の作例は奈良・西大寺本がもっとも早く、ついで大治2年(1127)に、五大尊像と同時に描かれた京都・東寺本がある。これらは後七日御修法(ごしちにちみしほ)などの密教の大法に用いられた。本図のように荷葉座や毛氈座、涌雲上に立ち上部に種子(しゅじ)を表すものは、灌頂(かんじょう)の儀式に用いられた十二天屏風の形式であり、平安後期から十二天行道に代わって懸用されたものとみられ、先行する作品には建久2年(1191)制作の東寺蔵詫磨勝賀筆本、京都・神護寺、滋賀・聖衆来迎寺本などがある。本図ももとは屏風仕立てであっただろう。
図様は東寺本や神護寺本(聖衆来迎寺本も同図)とはかなり異なっていて、梵天は四面ではなく一面四臂であり、地天は二臂に盛花ではなく花瓶を執り、日天は日輪を表さず蓮華のみを執るなど図替わりである。描線は謹厳であり、隈取りも強く、着衣上には彩色文様とともに金泥文様も散らす。堅実な画風が好ましく、鎌倉時代十二天屏風の貴重な遺例として注目される。
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, pp.312-313, no.157.