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木造十二神将立像

もくぞうじゅうにしんしょうりゅうぞう

概要

木造十二神将立像

もくぞうじゅうにしんしょうりゅうぞう

木像 / 南北朝 / 近畿

慶円

南北朝期

木造

像高(cm) 子神像48.3 丑神像52.7寅神像52.4卯神像52.2辰神像55.1巳神像52.8午神像53.5未神像52.3申神像53.6酉神像51.0戌神像51.4亥神像54.3

12躯

岸和田市指定
指定年月日:20140501

有形文化財(美術工芸品)

泉光寺は岸和田藩主岡部宣勝が寛文8(1668)年に没した後、その遺言によって隠居所が岡部家の菩提寺とされた臨済宗妙心寺派の寺院である。境内には岸和田藩主岡部家累代の墓があり、昭和31年8月に岸和田市の文化財(史跡)に指定されている。
  本像は本堂に隣接する薬師堂内に安置されている木造十二神将立像である。子神像から亥神像まで12躯全て揃い、いずれも作風は似ており、ほぼ同時期に製作されたものとみられる。像高はいずれも50cm前後である。彩色は大部分が後補。持物や手指部など欠失部分もあるが、おおむね保存状態は良好といえる。
  未神像と戌神像の台座地付部に墨書銘がある。未神像の墨書銘から、未神像が元は「泉州日根郡大井関法花寺」の十二神将像の1躯であったこと、康永2(1343)年に根来寺の山籠快基の発願により、根来寺において「大仏師法□慶円」が製作したことが判明する。南北朝時代以後、根来寺が泉南地域に強い影響を及ぼしたが、そうした歴史を伝える初期の資料としても貴重である。鎌倉末~南北朝期の根来寺の記録『束草集』には、嘉暦2(1327)年~康永2年頃に灌頂を受けた僧快基の記事があり、本像の願主と同一人物とみられる。日根郡の「大井関」は和泉五社の一つ大井関明神社(日根神社)と考えられるが、「法花寺」については他に記録がなく不明である。なお天保14(1843)年「泉州日根郡寺社覚」・元禄3(1690)年「泉州大井関古絵図」等によれば、江戸時代には大井関明神社境内に東方寺があり、泉光寺の末寺となっていたので、本像の伝来と関係する可能性がある。
また、製作者の慶円については、京都三条の仏師円派の流れを汲む一人と考えられ、根来寺内に造仏所があったことを示す資料として注目されている。円派は、鎌倉時代からは他の院派、慶派と同じく地方へも進出し、紀州根来寺での制作も行っているが、この作品はその一例である。
  戌神像の墨書銘は磨滅が著しいが、和歌かとも思われる文言の後に、日付を羅列し、日付の肩にそれぞれ合点を付す。「正平廿三年(1368年)」の年紀も認められ、未像と同じく南北朝期の墨書である。

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