木造五劫思惟阿弥陀如来坐像
もくぞうごこうしいあみだにょらいざぞう
概要
本像は,持光寺本堂本尊である。本像の造像に関しては,銘文の有無は確認できないが,貞享3(1686)年から明治16(1883)年までのことを記している過去帳と『日輪山金剛臺院持光寺什物録/宝暦十一年辛巳(1761)十一月改/當山三十一世龍空月洞碩礎代』によると,五劫思惟阿弥陀如来の造像を祖雲が発起(発願)し,元禄14(1701)年11月18日に雪心が京都へ行き,元禄15(1702)年2月3日に持光寺第29世住持真空諦岩が願主となって,大仏師法橋安清が造像したことと,像高は3尺5寸(約106.05㎝)で,本像が造像されたことにより院号が金剛臺(台)院から五劫院に改められたこと,光背は元々円光背であったが,福岡屋助三郎が(持光寺第31世住持)龍空(光か)月洞の代に舟形光背に改めたことが記されている。また,光背裏朱書銘によると,享保20年(1735)1月,持光寺第31世住持龍光月洞の代に福岡屋助三郎が施主となって,大仏師山口圭山・山口右京が光背を造ったことが記されている。これらの記録と本像の現状を照らし合わせてみても不整合性は察せられず,由緒が明らかな遺例として貴重である。これらの記録に見られる仏師名については不詳であるが,安清については若干の遺例が判明している。
造像以来,平成20(2008)年に面部の表彩の小修理が行われている程度で,ほぼ当初のまま伝来している。