嘉永七年寅九月魯西亜舶浪花邊海渡来ニ付諸家御固之図 かえいななねんとらくがつろしあはくなにわへんかいとらいにつきしょけおかためのず

幕末
紙本手書手彩
94.0*87.8cm
1舗

嘉永7年(1854)9月18日、大阪湾に侵入したロシア軍艦は、天保山より凡そ一里半の沖合に投錨します。ロシア使節プチャーチンが交渉の場に大坂を選択した理由は、天皇が住む京都に近い大坂に乗り込むことで脅威を与え、条約締結交渉を早期に、そして優位に進めるためでした。 
大坂城代土屋寅直は、直ちに手勢400余人を出陣させるとともに、大坂定番や大坂町奉行を介し、割り当ての海岸持ち場への派兵を担当大名に指示します。加えて、大名や旗本が大坂に置く蔵屋敷へも有り合せの人数の派兵を通達しました。本図は、その派兵状況を表わした図で、各陣地には守りについた87 大名・4旗本の名がみえます。大坂西町奉行川村修就が残した記録によれば、この時の派兵数は6,200余人を数え、兵站まで加えれば天保山周辺だけで14,000~15,000 人に達したともいわれています。また、安治川や木津川などの河口には、徴発した民間船を押し並べて封鎖し、端艇等による大坂市中への侵入を阻止しました。
プチャーチンは、ロシア政府から平和的な交渉を指示されていました。こうした日本側の対応について、彼の秘書官ゴンチャローフは、「海岸一帯にびっしりと小舟を並べて、それを力ずくで押し分けていかなければならないようにしむけ」られたため、思うような成果が得られなかった、と追想しています。

【名品2019】【開国・開港】

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