筏井竹の門書簡(附、竹の門宛書簡3通)
いかだいたけのかどしょかん
概要
本資料は明治から大正にかけて高岡の俳壇で活躍した筏井竹の門(1)自筆の葉書2通と竹の門宛の書簡3通の計5通の葉書である。
自筆2通は同宛先であるが宛所の安嶋太次郎については不明。住所に北一(2)方とあることから竹の門と同じ北一の社員の可能性がある。
大正5、6年頃から同11年頃までにかけて竹の門は草木、静物、風景、仏教、歴史人物の肖像など様々な画題を試みており、江沼半夏氏は著書『筏井竹の門覚書』の中で「この頃の竹の門の画業を成長期とし、画技の進歩はまことに目覚ましい」と記している(108pより抜粋)。
大正時代に使用していた○杉、○ス、○タ等のサインはこの葉書にはない。本資料2通は共通して大牧(3)の文字があり、大正3年頃から同13年まで大牧に出かけていたとされる時期に重なる。竹の門の俳日記(明治38年6月5日~大正3年12月22日)による大牧滞在や俳誌「層雲」(4)大正2年2月号に「大牧吟行」64句の発表もあり、竹の門と大牧の関係は深いものと考えられる。2通とも絵、文字ともに速度の速い、筆圧の少ない線で描かれ、抑揚のある線描は素朴な安定感がある。また附の3通は山口花笠(5)や寺野守水老(6)といった越友会(7)の同人や、子規門下の水落露石(8)、河東碧梧桐(9)ら俳人の名が記されており竹の門と俳人仲間の交流が伺える。
竹の門自筆のハガキ2の表面が不鮮明ではるあるが附資料含めた5通は明治から大正期にかけて竹の門の名が俳人、画人として中央に聞こえていたことを示す貴重な資料といえる。
なお、古城公園小竹藪に竹の門の句碑「宴つづく思ひの朝寝さへづれり」と竹の門の子嘉一(10)の歌碑「ゆめさめてさめたるゆめは恋はねども春荒寥とわがいのちあり」が隣接してある。
(参考文献)
・『筏井竹の門覚書』 江夏半夏著 折柳草舎発行 1990.04発行(53p、108~109p、242~273p)
・『筏井竹の門遺墨百選』高岡市立美術館編集、発行、昭和49年(年譜)
・『筏井竹の門作品集』昭和58.3.12 高岡西ロータリークラブ
・高岡古城公園散策ガイド、2018年発行
〈注〉
(1)筏井竹の門(いかだい たけのかど)
1871・11・28~1925・3・29(明治4・10・16~大正14)
俳人・俳画家。名をたけのかど、たけのもんとも呼ぶ。子息嘉一夫人筏井とみさんによれば「もん」がはじめのよみで竹の門の家には竹で作った門があり俳号はそれに由るものだという。北雪(ほくせつ)・四石(しせき)の別号がある。本名は虎次郎、旧姓向田(むくた)。旧金沢藩士の家系。金沢市に生まれる。1892年(明治25)高岡に転居、繊維商北一合資会社に勤務。97年日本派俳句会越友会の結成に参画。1900年高岡大火後に移住した桐木町の住居を〈松杉窟(しょうさんくつ)〉と呼び各地の俳人が来遊した。河東碧梧桐に師事し、越友会の指導者、『高岡新報』俳壇の選者となり俳誌『葦附(あしつき)』の刊行、浪化忌の開催など越中俳壇に貢献する。大正期には自由律俳句に向かう。また冨田渓仙・小川芋銭らと親しく往来して俳画に打ち込み,多数の淡彩墨画を遺す。句集・歌集・遺墨集4種がある。享年55。〈労働祭の踏みあらした草の雨あがる〉(1927年『竹の門遺墨集』)は最晩年の作。子息には歌人の筏井嘉一。
(参考文献)
・江沼半夏/(富山大百科事典〔電子版〕、北日本新聞社、20180929アクセス)
・『筏井竹の門覚書』 江夏半夏著 折柳草舎発行 1990.04発行、10p
・『筏井竹の門遺墨百選』高岡市立美術館編集及び発行、昭和49年、年譜
(2)北一(きたいち)
竹の門勤務先の小馬出町の綿糸布石油等卸販売業(社長・室崎間平)。竹の門は明治30年(1897)8月の北一合資会社創立とともに入社し没年まで勤続。北一における竹の門の仕事は「庶務兼計算係」であったという。同社には竹の門筆の帳簿や辞令が残っている。竹の門の画集『竹の門遺墨集』(昭和2年5月)『同続輯』(昭和11年6月)『同第三輯』(昭和20年9月)は「北一」の肝入りで出版。
(参考文献)
・『筏井竹の門覚書』 江夏半夏著 折柳草舎発行 1990.04発行4p、101p
・『筏井竹の門遺墨百選』 高岡市立美術館編集・発行 昭和49年10月1日発行
・『高岡老舗100年展』高岡商工会議所・高岡老舗会、平成21年、13p
(3)大牧温泉(おおまきおんせん)
南砺市利賀村大牧の庄川河畔にある温泉。1930年(昭和5)の小牧ダム建設前は峡谷にも村落があり、村人達の湯治場として素朴な宿があった。ダムの完成とともに村落は湖底に沈み、温泉宿一軒だけが上方に移転した。のち河畔でボーリングをして新たな泉源ができた。小牧ダムから船で行くのが主要交通手段で,深い山間の湖水に面した1軒宿が秘境の温泉として有名になった。
(参考文献)
・神嶋利夫/(富山大百科事典〔電子版〕、北日本新聞社、20180929アクセス)
・一般財団法人日本ダム協会HP20180928アクセス
(4)層雲(そううん)
俳句雑誌。明治44年(1911)、荻原井泉水が創刊。創刊当初は河東碧梧桐とともに新傾向俳句の普及をめざしたが、のちに季題に関する意見の相違から碧梧桐は離脱。井泉水は定型・季題を止揚した自由律俳句を唱えた。小沢武二、種田山頭火、尾崎放哉などを輩出。平成4年(1992)廃刊。
・小学館/デジタル大辞泉 20181005アクセス
(5)山口花笠 (やまぐち かりゅう)
1878・12・3~1944・2・17(明治11~昭和19)
俳人。砺波郡福田村和田(現高岡市)に生まれる。本名林造。吟風洞とも号する。地元では「かりつ」と呼ばれている。高岡育英小学校卒。明治28年頃から俳句を守水老に習い始め翌29年には子規に句を送って添削を受け、その後直接子規に面会し教えを受けている。明治30年7月の越友会発足の世話人を務めた当時花笠は18歳の若者で大正14年の竹の門亡き後定型俳句にかえって越友会を率いた。長らく高岡新報・北日本新聞の選者を努め地方俳壇の長老として重きをなした。
享年65。没後,句集『花笠句抄』(1944)が出版された。句碑〈雪解の北に流るる大河哉〉が高岡古城公園、卯辰山に建つ。
(参考文献)
・黒田晩穂/(富山大百科事典〔電子版〕、北日本新聞社、20180920アクセス)
・『筏井竹の門覚書』 江夏半夏著 折柳草舎発行 1990.04発行135~139p
・高岡市史下巻1011p
・高岡古城公園散策ガイド、2018年発行
・日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(20181012アクセス)
(6)寺野守水老 (てらの しゅすいろう)
1836・7・14~1907・4・10(天保7・6・1~明治40)
俳人。婦負郡城生村(現富山市八尾町)に生まれる。旧姓青山,本名宗教。西砺波郡福田村和田(現高岡市)西光寺の養子となり寺野姓を継ぐ。俳譜を半雪居(幸塚)野鶴に学び,別号を甘涯(かんがい),または煙霞亭(えんかてい)と号し宗匠株となる。1897年(明治30)6月,高岡に来遊した河東碧梧桐に接してのち,正岡子規の〈日本派〉に転じる。同年7月,寺嗣の寺野竹端・山口花笠・向田(筏井)竹の門らと語らい,日本派〈越友会〉を興し,本県俳壇の変革に大きな役割を果たす。東京の鳴雪,鎌倉の翠涛とともに子規門下における〈三老〉と称せられた。和田の西光寺境内に入ると向かって右側に守水老・竹端の句碑が並んでいる。〈秋風や海へなだるゝ山の雲〉守水老。〈朝もやの松よりはるゝ蓮見かな〉竹端。珍しく守水老の碑は陶製。『守水老遺稿』が残る。
(黒田晩穂/(富山大百科事典〔電子版〕、北日本新聞社、20180920アクセス)
(7)越友会(えつゆうかい)
俳句団体。明治30年(1897)6月、正岡子規(日本派俳句創始者)の高門であった河東碧梧桐がのちの守水老を訪れ,越友会を創設。同年7月15日、寺野守水老・山口花笠・のちの筏井竹の門・新田三種らが西光寺に集まり、子規派〈越友会〉を結成。碧梧桐は子規の写生・写実的な句に五・七・五の定型に制約されない自由律(新傾向俳句)を提唱し、越友会は竹の門を中心として自由律全盛の時代を迎える。日本派俳句会としては富山県内初、全国でも7番目という快挙で子規や碧梧桐から直接の指導を受ける。以降,寺野守水老・筏井竹の門・山口花笠と指導者を継承していく。竹の門が大正14年(1925)に没すると花笠が虚子の定型派(伝統的な五・七・五)に戻ったことで新傾向派は消えて定型派の花笠が同会をまとめていった。大正・昭和期にかけて県内俳壇の興隆に寄与したが、太平洋戦争の激化と山口花笠の死去で自然解散した。
(参考文献)
・『富山大百科事典』
・『高岡市史』下巻1009p~1001
・『企画展 郷土の俳句・俳画』平成14年、高岡市立博物館
・当館学芸ノート 【第2回】 河東碧梧桐書簡
(8)水落露石 (みずおち ろせき)
明治5年(1872)3月11日生。大正8年(1919)4月10日死去。
明治-大正時代の俳人。大阪船場の商家をつぐ。正岡子規に師事し,中川四明らと京阪満月会をおこす。俳諧史,とくに与謝蕪村の研究で知られた。のち河東碧梧桐の「海紅」同人。享年48。大阪商業卒。本名は義弌。通称は庄兵衛。別号に聴蛙亭。編著に「圭虫句集」「蕪村遺稿」。
(講談社/デジタル版 日本人名大辞典+Plus 20180917アクセス)
(9)河東碧梧桐 (かわひがし へきごとう)
1873・2・26~1937・2・1(明治6~昭和12)
俳人。愛媛県松山市に生まれる。本名秉五郎。初め女月、のちに梧桐・青桐などと号した。父は漢学者河東静渓。高浜虚子とともに正岡子規にまなび、新聞「日本」の俳句欄の選者をひきつぐ。1897年(明治30)6月、遊説のため西砺波郡福田村和田(現高岡市)の西光寺住職寺野甘涯(のち守水老)宅で数日滞在。同年7月、寺野守水老ほか筏井竹の門、山口花笠らが集まり子規派〈越友会〉を興す。のち新傾向俳句運動をおこし、中塚一碧楼(いっぺきろう)らと「海紅」を創刊、季題と定型にとらわれない自由律俳句にすすむ。大正12年「碧(へき)」、14年「三昧(さんまい)」を創刊。作品に「碧梧桐句集」、紀行文に「三千里」など。享年63。
(参考文献)
・(黒田晩穂/(富山大百科事典〔電子版〕、北日本新聞社、20180920アクセス)
・講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」20181002アクセス
・『筏井竹の門覚書』江沼半夏著 5~9p,23~36p,
(10)筏井嘉一( いかだい かいち)
明治32年(1899)12月28日生。昭和46年(1971)4月21日死去。
大正-昭和時代の歌人。筏井竹の門(たけのかど)の長男。大正3年北原白秋の巡礼詩社にはいる。昭和3年柳田新太郎らと新興歌人連盟を結成。15年から「蒼生(そうせい)」(のち「創生」)を主宰した。享年71。富山県出身。歌集に「荒栲(あらたえ)」「籬雨荘雑歌(りうそうぞうか)」。
【格言など】夢さめてさめたる夢は恋はねども春荒寥(こうりょう)とわがいのちあり(「荒栲」) (講談社/デジタル版 日本人名大辞典+Plus 20181002アクセス)
〇以下各々解説
1.
【葉書表面】
差出人 高岡桐木町 筏井乕((虎)二(次))郎
宛先 東京日本橋区小網町一ノ九北一方 安嶋太次郎
年代 大正7年(1918)11月3日(消印「高岡/7.11.20」)
【葉書裏面】
十二日朝御手紙、大牧を経て漸く本日入手仕候、小生は帰宅早々風邪の御仲間入り致し候、昨今は快方に向ひ候まゝ乍憚御休神被下度、委細は後より可申上候、
/□君□君にもよろしく御鳳声(11)御座候、以上
〈解説〉
大牧滞在後投函のハガキ。風邪をひいているとあるので寝床にいる自身を描いたものか。自在に筆を使い、速度のはやい軽妙な線で上半身が大きくデフォルメされた略筆の墨画である。書も早書きで筆圧は弱く文字と絵のバランスに安定感がある。
竹の門の大牧温泉行がいつ頃始まったかははっきりしないが大正3年頃から勤め先「北一」の経営者一族(2代室崎間平の養弟)の室崎間左七老人とともに、秋になると10日間から半月位の湯治に出かけるようになった。高岡の画家村井盈人(12)は室崎間左七を「竹の門の画家としてのすぐれた資質を最初に認めた人であるが、この人の物心両面の庇護をぬきにして、画家竹の門を考えることは、かなり困難なようである」と記している(『筏井竹の門遺墨百選』より抜粋)。竹の門は大牧温泉行の度毎に絵日記を残しており、大牧吟行は竹の門の思索を深めたいえる。大牧温泉へは大正13年秋まで続いた。その翌年大正14年に竹の門は永眠している。
(参考)
・『筏井竹の門覚書』 江夏半夏著 折柳草舎発行 1990.04 86~94p
・『筏井竹の門遺墨百選』高岡市美術館編集発行 昭和49.10.01
・HP「近代名士家系大観/室崎間平」20190130アクセス
〈注〉
(11)鳳声(ほうせい)
1 鳳凰(ほうおう)の鳴き声。転じて、貴人の声。2 他人を敬って、その伝言・音信いう語。 (コトバンク20180929アクセス)
(12)村井盈人(むらい えいじん)
1899・1・30~1976・10・27(明治32~昭和51)洋画家。高岡市通町に生まれる。
県立工芸学校(現高岡工芸高校)図案科卒業。日本水彩画展・二科展などに入選。22年以降は中央画壇を離れ,県内最初の洋画団体である北国洋画協会に参加する。29年(昭和4)雄山通季(みちすえ)・久泉共三らと穹玄社を結成。さらに30年に丹緑社,48年散木社を結成し旧高岡商工会議所などで精力的に作品を発表,40年ごろから水墨制作も始める。富山・高岡両市で個展を開催するなど,地方画壇に大きな刺激を与えた。竹の門臨終の折、死顔をスケッチした。享年77。
(参考文献)
・神保成伍/(富山大百科事典〔電子版〕、北日本新聞社、20180929アクセス)
・『筏井竹の門遺墨百選』高岡市立美術館編集、発行、昭和49年(年譜)
2.
【葉書表面】
差出人 大牧ニテ (カスレ)/筏井乕((虎)二(次))郎
宛先 東京日本橋区小網町一ノ九 (カスレ)
※1.と同住所より同人物の安嶋太次郎宛か?
年代 大正8年(1919)11月6日(消印「富山□□/8.11.7」)
【葉書裏面】
木樵
(樵の絵)
大牧入浴記念 十月六日
大牧温泉湯治記念の印あり
〈解説〉
草の茂みで木こりが斧を振りかざす瞬間である。左下に描かれた薪は木こりが少し前に割ったものだろか。線の太さと素描にスピード感があり素早く気取りのない線と柔らかな太い線は画全体を明るくしている。描きつくさない素朴な絵は安らかな印象を与えている。
画人の芋銭(13)は竹の門の線を「其筆趣は誠に無礙自在にして、能く自然を把握し、好んで太い線を使われた」とし竹の門の絵を「一種瀟洒な気高さ」と指摘している。(『筏井竹の門覚書』113pより抜粋)
〈注〉
(13)小川芋銭(おがわ うせん)
慶応4年(1868)2月18日生。昭和13年(1938)12月17日死去。
明治-昭和時代前期の日本画家。本多錦吉郎に洋画をまなび,独学で日本画も習得。「朝野新聞」などに挿絵や漫画をかく。茨城県牛久に移り住み,院展を中心に活動。河童の絵で知られる。日本美術院同人。享年71。幼名は不動太郎。本名は茂吉。別号に牛里,草汁庵。代表作に「森羅万象」「夕凪」。
(講談社/デジタル版 日本人名大辞典+Plus 20181013アクセス)
3.
差出人 名古屋玉屋町 三輪伊六
宛先 越中高岡市御旅屋町 筏井虎次郎
年代 □年6月13日(消印)(守水老逝去は明治40年(1907)4月10日。「40」か)
【葉書表面】
あしつき御盛大にて結構に候、御骨折御察申上候、守水老翁古希を祝ひあえず御逝去之由、悲しき極みに候、□生久しぶりにて一日の閑を得候間、御無沙の御詫まことにいゝつら□御目にかけ候
未央(14)
竹の門様
【葉書裏面】
市中は/ものゝにほひや/夏の月 凡兆(15) ○未
俳諧三十六歌仙の中ニ候へとも中々花村には似不申候
〈解説〉
「市中(まちなか)は物のにほひや夏の月」は野沢凡兆と向井去来(16)が編集(芭蕉監修)した『猿蓑』(1691年刊)の収録句で猿蓑集巻の五に収められている発句である。季語は夏の月。
「夏の月」は涼しさの象徴であるがこの句は夏の暑苦しさを吟じた名句と言える。ハガキ表面に未央とあることから三輪伊六は三輪未央のことかと思われる。
(参考文献)
・HP富山県民生涯学習カレッジ テレビ放送講座
(平成4年度テキスト「第1回風の語るもの」 布村 弘著) 20180929アクセス
〈注〉
(14)三輪未央
詳細不明。俳人の三輪未央は「迸る(ほとばしる)鍛冶の鉄火や、夜の梅」という句を詠んでいる。
(Weblio 英語例文20180920アクセス)
(15)野沢凡兆 (のざわ ぼんちょう)
?-正徳4年(1714)
江戸時代前期-中期の俳人。金沢生まれ。京都で医を業とした。妻の野沢羽紅とともに松尾芭蕉に師事。向井去来と「猿蓑(さるみの)」の編集に参加し同書中に最多の41句がえらばれる。のち芭蕉からはなれ,大坂でくらした。加賀(石川県)出身。名は允昌(霄)。別号に加生,阿圭。
【格言など】野馬(かげろふ)に子供あそばす狐哉(「猿蓑」)
(参考文献)
・日本人名大辞典第五巻 平凡社 1938.3.5出版
・(講談社/デジタル版 日本人名大辞典+Plus 20180920アクセス)
(16)向井去来 (むかい きょらい)
慶安4年(1651)生。宝永元年(1704)9月10日死去。
江戸時代前期の俳人。向井元升(げんしょう)の次男。京都で儒者として親王家などにつかえたが,松尾芭蕉に入門して俳諧に専念。蕉門十哲の一人に数えられる。嵯峨に草庵落柿舎をいとなむ。蕉風の忠実な伝え手で,同門中でも重んじられた。元禄4年「猿蓑」を野沢凡兆と編集。享年54。肥前長崎出身。名は兼時。字(あざな)は元淵。通称は平次郎。著作に「旅寝論」「去来抄」など。
【格言など】岩はなやここにもひとり月の客(「去来抄」)
(参考文献)
・日本人名大辞典第六巻 平凡社 1938.10.31出版
・(講談社/デジタル版 日本人名大辞典+Plus 20180929アクセス)
4.
差出人 大阪府下浜寺 石神病院 塩谷鵜平(17)
宛先 越中国高岡市御旅屋町 筏井虎二((次))郎
年代 明治42年6月2日(消印)
【葉書表面】
〇先日ハ御見舞状多謝々々、〇病院の裏門外に「水落海荘」あり。いはずとも露石別野、〇僕病気全癒の見込ある由、あてにハならぬが急には死ぬまい、碧師((碧梧桐))貴地に入る前に恢復しておいて、早速馳せ参する約なり〇花笠((山口))兄貴へ無沙汰々々々、兄より宜敷御伝声〇橡面坊(18)君ハ古き人、なつかしき人〇恐ろしきハ二十前後の若い俳人、匆々
【葉書裏面】
「浜寺公園ヨリ高師ノ浜ヲ望ム」の古写真に南海鉄道浜寺園遊場遊覧記念の押印あり
涼しさや 我俳陣を 布く処
六月一日
浜寺鵜
〈解説〉
差出人の塩谷鵜平は竹の門と同じく河東碧梧桐に師事した俳人である。碧梧桐の書法に影響を受けた書体で書かれている。浜寺公園は現在の大阪府堺市西区。高師の浜は同府高石市の大阪湾に臨む浜。かつては、北の浜寺(はまでら)(堺(さかい)市西区)にわたる白砂青松の景勝地をなし、『万葉集』はじめ詩歌に歌われた名所であった。
(参考文献)
・大阪府公園協会HP
・小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
・『企画展 郷土の俳句・俳画』平成14年、高岡市立博物館3p
〈注〉
(17)塩谷鵜平 (えんや うへい)
明治10年(1877)5月30日生。昭和15年(1940)12月8日死去。
明治-昭和時代前期の俳人。新傾向派の河東碧梧桐に師事し,晩年は自由律俳句をつくる。郷里の岐阜県江崎村(岐阜市)で個人誌「土」を終生つづけた。享年64。東京専門学校(現早大)卒。本名は熊蔵,のち宇平。遺著に「土」「土以前」。
(講談社/デジタル版 日本人名大辞典+Plus 20180917アクセス)
(18)安藤橡面坊(あんどう とちめんぼう)
明治2年(1869)8月16日生。大正3年(1914)9月25日死去。
明治-大正時代の俳人。「大阪毎日新聞」の校正部長,「毎日唫壇」の2代目選者をつとめる。亀田小蛄(しょうこ)が主宰する糸瓜会の同人として活躍し,遺句集に小蛄選「深山柴(みやましば)」がある。享年46。備中(びっちゅう)(岡山県)出身。本名は錬三郎。別号に影人,橡庵。
(講談社/デジタル版 日本人名大辞典+Plus 20180917アクセス)
5.
【葉書表面】
差出人 福井県吉田郡森田村 早見光太郎(19)
(住所・氏名の印)
宛先 越中国高岡市御旅屋町 筏井虎次郎
年代 大正13年(1924)12月30日(消印)
【葉書裏面】
白文方印「賀正新」 朱文円形印「光風」
(以下印刷)
初東風や/馬具屋母衣やも/華表筋
宝崩し 小判真黄に/織初めて
(19) 早見光太郎(光風)
明治2年(1869)7月15日生。昭和2年(1927)4月1日没。福井県吉田郡森田村生まれ。福井県会議員。絹織物業を営み同県の絹織物同業組合副組長につく。大正3年(1914)5月2日竹の門と福井県の晴嵐亭で句会を開いている。
(参考文献)
・国立国会図書館デジタルコレクション 内外福井県人士録 第一巻 20180920アクセス
・『筏井竹の門覚書』 江夏半夏著 折柳草舎発行 1990.04 69p